「本日休診」の札が掛けられると、その日は来客です。
父は浜名湖に和舟をこぎ出し、流し釣りをしてコチやカレイを釣ってきました。それを料理してお客のお持て成しをするので、私も父母の手伝いに大忙しでした。
ここまでは良いのですが、父がお料理の中で一番気にしていたのは香の物でした。特に糠漬けで、床の味わい、香り、発酵状態などと漬け具合です。茄子の濃紺(茄子紺)の色には更にこだわっていて漬ける時間や出すタイミングをいつもこと細かに注意するのでした。「今日の茄子は誰が仕入れてきたのか。ねーやか芳子か。」と。「茄子はふっくりとしてみずみずしく、皮の柔らかいものを選びなさい。あら塩でもんで、出す時間によって縦半分に切り込みを入れるか四つに切り込みを入れるかを決め、出す時には甕(かめ)の中で軽く糠を落とし、決して絞ったりせず、流し台に持って来たら糠のついたままの状態で程よく手でもんで、それから糠を洗い落として軽く絞って切る。それは相手が香の物を召し上がる直前にすること。」と、云った風にです。香の物の好きな妹には、幼稚園まで、お弁当の時間に「茄子の糠漬け」を家族に運ばせる徹底振りでした。
こんな訳ですから、お客は、お帰りには父の自慢の沢庵を新聞紙と風呂敷に包んでお土産にしなければなりません。ビニールがない頃ですから汽車の中でさぞ臭ったことでしょう。
夏になると沢庵はキャベツと一緒に「かくや」にして子ども達(私達)に食べさせました。写真を掲載しました。
さて、沢庵(たくあん)は香の物の主役ですが、何故(なぜ)香の物と呼んだのでしょうか。
平安時代より行われていた香を聞く、聞香の際、嗅覚が鈍ると大根の塩漬けを噛んで嗅覚を復活させた、といわれています。これが香の物の名の由来です。この頃の大根は塩漬けでしたが、その後、糠と塩を混ぜて漬けるようになりました。
江戸時代の初期、澤庵和尚が創建した東京、品川の東海寺に徳川家光が訪れました。その際に米ぬかと塩を混ぜた大根漬けを供したところ、たいそうお気に召され、「名前がないのであれば澤庵漬けと呼ぶべし」と云われたことから、これを澤庵と呼ぶようになりました。
江戸時代にはこの澤庵が大流行して当時の武士のおかずに欠かせないものとなりました。では、何切れ付けたのでしょうか。一切れ付けるのは「人斬れ」に通じてよろしくなく、三切れは「身切れ(腹を切れ)」に通じますので、二切れ出しました。私は師匠から教えられたまま何の疑問もなく、香物の鉢の中には必ず二切れの澤庵を入れているのですが、この原稿を書きながら納得した次第です。
私の教室では茶懐石のフルメニューで授業をしています。
この懐石料理は茶の湯の茶事で出すお料理で、食礼としてこまかい決まりがあります。
献立は、御飯、味噌汁、向付、椀盛、焼物、預け鉢、箸洗、八寸、湯斗、香物と決められていて、懐石の締めくくりが香物です。このように香物は大切な懐石の一品なのですが、これがなかなか満点に盛ることができません。つい家庭のくせが出てしまい、悩みの種です。香物は3~5種類を鉢に盛り合わせ、人数分を出します。その中心の一種類は澤庵です。澤庵は浅漬けから古漬けまで季節によって変わり、切り方も異なります。また、客の年齢も考慮して食べ易いように切り、茶席で静かに頂けるように切れ目を入れたり、裏側に切り込みを入れる配慮も必要となります。その他はなるべく自家製で季節の漬物を添えたいものですが、各地の長い歴史を持つ洗練された味の漬物を取り合わせるのも良いでしょう。
香物は懐石では湯斗と一緒に持ち出します。湯斗は一般の食事の終りに出される番茶や焙茶に当たるもので、お焦げの御飯に湯を入れて持ち出します。香物と一口残しておいた御飯でお茶漬けのように頂くものです。
懐石料理は濃茶をおいしく味わって頂くための茶席のお料理ですから、いろいろと作法がありますが、お料理は特別なものではありません。日常の惣菜の中から自分の得意なお料理を選んで、季節の材料に繊細な味を付け、形や色合い、器との兼ね合いも考えて、おいしさと美しさを追求するものです。お料理は簡素に用いるのが本来のあり方ですが、その日の趣向やお客に合わせて豊かでもよろしいかと思います。合理的な段取りと的確な作業で、間合いよく全体の調和を心がけるように致します。
茶の湯のお点前は一手間違えれば次に進めません。懐石も同様です。出来る限り十に近づけるようにと日々研鑽を積むことが求められます。
日本人のこの茶の湯のように常に完成(十)を目指すことは、じつは、形を整えることで心を安定させ、健全な精神を育むという禅的な意味合いが込められていると私は考えています。前記の談話は、人は常にモチベーションを高く、と説かれたものでしょうか。