神谷尚代(17回)
  出発   ゲルに住まう方々
  ウランバトル観光   トイレ事情  
  スフバートル広場   内陸の国  
  モンゴル草原の風   草原から都市へ  
  道ってなあに   都市のインフラ  
  リゾートキャンプ   モンゴルのお寺  
  憧れの乗馬   民族舞踏歌謡ショー  
  お花畑を訪ねて   ダムバダルジャー  

2007年6月21日から27日までモンゴルを旅して来ました。 拙い旅行記にお付き合いいただけましたら幸です

 何かと話題になり、今が旬なのかなと思われるモンゴルを旅してきました。
モンゴルの草原には漠然とした憧れはありましたが、本当に行きたいと思ったのは、昨年暮の1通のメールでした。「モンゴルは6月末から7月、草原の花が一斉に咲き、すごくきれいです。ぜひいらっしゃい。」と言うものです。すぐその気になって、ツアー予約をしたのが、1月、その足で乗馬クラブに入会しました。モンゴルに行くなら、馬に乗りたいですものね。

モンゴルから、メールを下さったのは私の友達、3年前ピースボートに乗船して、地球を一周した時に知り合った方です。今、JICAのシニアボランティアとして、ウランバトルの大学で日本語を教えています。

出発

 一行10名、成田から出発しました。朝青龍の騒ぎで、モンゴル行きのルートも有名になりました。
モンゴルの国営ミアット航空が週3便直行便をだしていますが、混み合います。ほかは、乗り継ぎ便になります。私達はソウルで乗り継ぎました。残雪の富士の上を飛びました。


ウランバトル観光

 チンギスハーン空港に着いたのは深夜でした。灯も落ちて、様子がわかりません。なにはともあれ、休みました。
翌日は市内観光、その後、今回のメインのソゴートリゾートキャンプに向います。

ザイサンの丘

 ウランバトルに行ってまず観光するのが、市郊外の小高いザイサンの丘です。ウランバトル市全体が見渡せます。
展望台には、旧ソビエトとの友好を描いたモザイク画が飾られています。観光客にはまず見せたいものなのかも知れません。

 モンゴルの面積は日本の3倍、人口は260万人です。そのうちの、130万人がこのウランバトル市に住んでいます。遠くの丘のふもとまで、家が密集していました。
交通の要所や見晴らしの良い場所には、柱を立てて石を積み上げたり布を巻いたりしたオブジェがあります。「オボー」と言うそうです。石を積みながら、3周して旅の安全や、平穏を祈るのだそうです

   


スフバートル広場

ウランバトル市の中心にある、国会議事堂前が、スフバートル広場です。色々な行事やお祭りなどが行われます。

  モンゴルは、11世紀の チンギス ハーンにより広大な帝国が築かれました。帝国が滅んだ後、遊牧のモンゴルに漢民族が入り込み、争いが続きました。
 1921年中国から独立したモンゴルはモンゴル人民革命党を組織して親ソ連政策をとりました。「モンゴル独立の父」、またの呼び名を「モンゴルのスターリン」と言われるチョイバルサンは1930年から徹底的 にモンゴルに根付いていたチベット仏教や古典文化を粛清し、縦書きのモンゴル文字もソ連のキリル文字に変えてしまいました。

 1989年東欧やソ連で民主化運動が起きモンゴルでも反官僚主義、民主化運動が起きて1992年には、モンゴル人民共和国から、モンゴル国に改称し新憲法を制定して社会主義を放棄しました。
スフバートル場を囲んで、偉人の銅像や、オペラハウス、各国大使館。有名企業などが並んでいます。

 

目立つのは朝青龍の看板です。これは、朝青龍の持つ銀行です。

 スフバートル広場の後は、国立自然博物館に立ち寄りました。モンゴルの鉱物資源や、動植物が展示されていました。特に、ゴビ砂漠で発掘された恐竜の化石が、素晴らしいものでした。しかし、残念なことに保存状態が大変悪く、冬の暖房の影響でぼろぼろです。ゴビ砂漠に置いたほうが保存がよいみたいです。こんなところにも日本が技術援助できることがあるのではないでしょうか。
 「テロとの戦い」を声高に唱えるより、本当に人々の目に見えるところで、平和に暮らすために役立つことをしたほうが、実効的ではないのでしょうか。
 アフガニスタンで医療活動をし、命が脅かされる大干ばつの中、井戸を掘り、運河を掘り進めている、中村 哲先生の活動こそ、テロリストを出さない活動なのかと思います。
 2004年 アテネオリンピックの時、ギリシャのピレウス市の市長さんが「今回のオリンピックで、ピレウスから4000人の警備陣を出しましたがアメリカから「テロ防止のために,7000人に増員してくれ。」と言われました。この増員でかかる費用を、途上国の医療や教育に回したほうがテロ防止になると私は思います。」と言われたことを思い出します。
 旅行記が横道にそれてしまいました。さあこれから、モンゴルの風を求めて草原のリゾートキャンプに向います。
そうそう、お昼を食べた焼肉店に、「横綱」というウイスキーがありました。


 モンゴル草原の風

 さあ、いよいよ憧れのモンゴル草原に向います。
モンゴルは6月から9月まで雨期です。しかし今年は雨が少なく、6月に入ってからウランバトル市では一滴の雨も降っていないそうです。
町全体が埃っぽく、そのうえ、少ない街路樹のポプラの種の綿毛が飛び交っているので、息苦しいようでした。郊外に出ても、芽吹きのない茶色の草原ばかりです。
不安と期待が交錯しました。

 今回訪れる場所は、ウランバトルから北西に70Kmのところにある、「ソゴートリゾートキャンプ」です。

 

  町のはずれのガソリンスタンドで、当座の飲み水などを買い込みました。
 ハラホリン方面に向うこの道は有料道路です。
夏は+30度、冬はー40度というこの地は道路のメンテナンも大変です。しかし、実際にはこの通行料もどこに消えるか分からず、道路はぼこぼこです。
有料道路はこんな風に、ずっとずっと続いていました。
この先は、朝青龍の滞在で賑ったドリームランドのある、ハラホリンに続いています。ハラホリンはかつてモンゴル帝国の都のあった古い町です。でも、今は古い城壁しか残っていません。

道ってなあに

 この道は西のハラホリンに向います。私達が向うソゴートはこれより北の方向にあります。
道の両脇の草原は次第に緑を増してきました。1〜2回雨が降ったそうです。
  今まで私が出会った道は、縁石や、側溝。フェンスやガードレールで区分けされていました。それが道だと思っていました。

 突然私達のバスは右にハンドルをきって草原に突っ込みました。
轍があるわけでもない、原っぱに突っ込んだのです。
乗客の誰かのトイレ休憩かなと思いましたが、何もない原っぱをずんずん進みました。そう目的地にまっしぐらに進んでいたのです。
 わたしはあまりにも道路というものに惑わされていたことを考えました。
人が歩いたり移動するから道ができるのであって、道があるから移動するのではないのです。

原っぱの向こうに道路標識らしきものが見えました。別に道があるのではありません。この標識を建てた頃はここに轍が多かったのでしょう。
「ソゴート?、大体こっちの方向、間違えたらごめんね」
と言うように見えました。

青い空 緑の草原
規制されたルートでないところを走る爽快さ、 心がゆっくり解けていくような感じがしました。

もちろん道なき道は何があるかわかりません。ウサギやいたちが作った穴に突っ込んだり、ぬかるみにはまったりします。
いよいよキャンプ、馬達がお出迎え!

 

 

 

リゾートキャンプ

 モンゴルのリゾートキャンプについては、朝青龍報道で何度も紹介されました。
手付かずの自然(モンゴルでは手の付いている所のほうがめずらしい)の中に遊牧民の住居である、「ゲル」 を建て、旅行者を迎えています。
 このソゴートリゾートキャンプは新しく、こじんまりしたもので
した。4人用ゲルが12棟、それにレストラン用のゲル、トイレ、 シャワーの建物1棟と日よけテント1張り、これだけです。
 いま、モンゴルでは観光に力をいれています。日本のJICAからも、観光開発チームが送られています。

 このキャンプは電気がありません。電話も、つながりません。井戸を掘ってあるので、水はあり、トイレは水洗です。ゲルからトイレまで300m、レストランまでは200m、バスを止めたところまでは500mあります。
否が応でも歩かなければなりません。身も心も健康になれる気がしました。


― ゲルの中 ―

ゲルは、真南に入り口が作られる。
中央に2本の柱、この間は通ってはいけない。入り口奥に祭壇、左が男性の居場所、右が女性の居場所と台所になっている。キャンプのゲルはシンプル。4人宿泊でき、薪ストーブは朝4時に点火する。


憧れの乗馬

 ああこの日のために、乗馬クラブの会費も払いました。練習中 落馬もしました。いまだに大きな青痣が残っています。インストラクターのおじさんは近所でキャンプしている遊牧民の方達です。とてもよい方達ですが、困ったことに「馬に乗ったことがない。」「乗れない」と言うことが理解できません。3歳で馬に乗り始めるというこの地では、大人で乗れないなど非常識この上ないのでしょう。練習してきて良かったと思いました。翌日にはみんな、かなり乗れるようになりました。ものすごい数のハエが草原にいます。こうして移動するとハエ柱が立つようでした。虫が嫌いな方はだめでしょう。

お花畑を訪ねて

みんなでお花を探しに行きました。通訳さん、運転手さんの他、花畑に詳しい方も加わってくださいました。今年は、雨が少なく草の生長が遅れています。なかなか咲いているところがありませんでした。

「これ何という花」
「?」
「これは?」
「??」   

ガイドさんは花の場所を探すガイドさんで、花の名前を教えるガイドさんではありません。この地では「花は花、鳥は鳥、魚は魚」なのです。重要なのは名前ではなく、家畜や人間に害があるかどうかなのです。おおらかで現実的ですよね。こんなことでも、肩の力が抜けます。大きな青空と、見渡す限りの草原に包まれると、人間なんて本当に小さいものだと思いました。「背伸びして何になる。小さいものは小さいなりに生きていけばいいじゃないか。」と言われているように感じました。




ゲルに住まう方々

 キャンプ近くにテントを構える遊牧民のお宅を訪問しました。
かつてはモンゴル国民の大部分が遊牧生活をしていました。しかし、近代化の波、何よりも、気候変動で、放牧ができなくなりました。2005年の大雪で多くの家畜が死に遊牧民は仕事を求めてウランバトルに出ていったのです。
ゲルは大人二人で2〜3時間あれば完成するそうです。広さはたたみ8〜10畳くらいです。
ヨーグルトやチーズ、干しチーズをご馳走になりました。
この家族は夫婦と子供一人、20頭の牛と運搬用の2頭の馬を持つ零細酪農家です。かつて社会主義時代には、国営工場が乳を集め、乳製品を作っていたそうですが、効率が悪く立ち行かなくなりました。

今は自由競争で、大きな酪農家はますますおおきく、零細農家は廃業しかないそうです。このお父さんはリゾートキャンプの乗馬コーチなどで現金収入を得て暮らしています。理想に燃えて社会主義と決別した時、アメリカが大きく介入したため、国民の許容以上の競争社会が出来上がってしまったといわれています。モンゴルの夏はとても忙しくまた生気に満ちています。家畜たちはたっぷり草を食べ、栄養をつけて冬に備えなければなりません。人もまた同じ、仕事をかけもちして、収入を確保します。

遊牧民の子供は6歳になると、親を離れて学校の寮で暮らします。6〜8月の夏休みには親元に戻り、親の仕事をおぼえます。14歳の少年の自信に満ちた放牧には、感動すら覚えました。家畜たちが十分草を食べられますようにと祈りました。

トイレ事情


 リゾートキャンプには清潔な水洗トイレがありました。今では私達は水洗トイレを当たり前のように使っていますが、ちょっと前までは「ご不浄」「雪隠」でした。モンゴル草原は広い、もちろんゲルにトイレはありません。
草原では動物も人間も植物もみんな自然の一部です。草原に多いハエやアブは、動物たちの排泄物の処理をしてくれているのですね。
 ところで、こんな場所でツアー客がもよおしたらどうしますか?
ガイドブックには「体を隠せる大きめのタオルか、折りたたみ傘をお持ちください。」と書いてありました。でもそれもなかったら「全員が背中合わせに立って、放射状に50歩進み、用を足す。」そうです。
使用済みティッシュで草原をお花畑にしないように、小さなビニル袋を持っていって、処理をするのは最低のエチケットでしょうね。

内陸の国

モンゴルは中国、ロシアに接した内陸の国です。草原を貫く鉄道がありました。
この先はロシアのモスクアに続きます。ここを通って石油が運ばれてきます。
振り返ってこちらは中国の北京に続きます。

日用品が運ばれてきます。どちらが止まっても立ち行かない国です。
人々は韓国に出稼ぎに行っています。

 1999年からそれまで必修だった学校でのロシア語を英語に切り替えました。大国の間では、この草原や砂漠に埋蔵されている希少金属の争奪戦が激しくなっています。大国の狭間で厳しい国の運営が余儀なくされています。

 

草原から都市へ

 草原を後にする日が来ました。
みんなフレンドリーで、分かれがたい 気持ちです。日本人のルーツかな、だれ が日本人で誰がモンゴル人か、わからないくらいみんな似た顔です。特に、夏休みでこのような施設にアルバイトにきている高校生や大学生は、盛んに日本語を吸収しようと話しかけてきました。
日本に大きな憧れを持っている人達に、期待される日本でなければいけません。

 草原を再び縦横無尽に走りウランバトルに戻りました。

都市のインフラ

 大草原からウランバトルの町に帰りました。途中に火力発電所の余熱を町のアパートの暖房用に送るパイプラインがありました。

モンゴルは社会主義時代にソ連の影響を受け集合住宅がたくさん作られました。水、電気、暖房の心配がいらないアパートは、モンゴルの人の憧れです。今たくさんの高層アパートが出来ています。現場を見ると、鉄骨も細く、いかにも華奢です。
「地震はないのですか?」「ウランバトルでは、経験していませんが、あります。でも人がいないので、地震があったことを知るのに2〜3週間かかります。」新しいアパートは2LDKで250〜300万円くらいだそうです。普通のリーは1万円から2万円、語学ができると就職に有利だそうです。安くて丈夫なソ連時代の古いアパ―トが人 気です。

 遊牧をやめて都市に移り住んだ人は、このように、ゲルを建てたり、バラックを建てたりして住んでいます。ウランバトルの住民の6割がこのような住環境に暮らしています。このような場所には電気はありますが、水がありません。市は給水車を出して対応しています。水運びは大切な子供の仕事です。モンゴルの広さは日本の3倍、人口は260万人です。人々は自由に土地を使っていました。
2005年、政府は都市部で0.7ha 、郊外で1haの土地を無償で与えることにしました。このように貴重な木材を使って、所有権を主張している場所が目立ちました。 無償で与えられるのですが、申請から許可まで時間がかかり、早くしてもらうため、賄賂が横行しています。
もちろん遊牧民の土地利用は無制限で申請もなしとのことでした。
 隣家まで。近くて数時間、普通2日位かかると言う草原での暮らしをやめ壁1枚で知らない家族と暮らす生活はそれだけでストレスがたまるのではないでしょうか。

モンゴルのお寺

 モンゴルでは、チベット仏教が信仰されていました。しかし、社会主義時代、信仰は停滞し、多くの寺院が破壊されました。

チベット仏教総本山カンダン寺

黄衣、赤衣のお坊さん

五体投地のための台

日本の寺院に慣れていると、極彩色の建物、金ぴかの大きな眼をした仏像はまぶしく感じます。
特に、8代活仏ボクドハーンの、夏の宮殿の美術館は興味を惹かれました。
 チベット仏教には地獄の様子が描かれています。ボクドハーンの居間の2面 は、寂静尊(優しい仏様)2面は憤怒尊(怖い仏様)と地獄絵でした。こんなところで休まるのかと思われる場所です。
内臓でつながれ逆さ吊りにされた亡者の人形が飾ってありました。
 ちょっと楽しいのはご本尊も脇仏もみんな奥様連れなのです。膝の上に明妃を抱き、キスをしています。手を合わせて礼拝する前に、どうしても目の前のなまめかしい裸の明妃のお尻に目がいってしまいました。
一緒に行ったおじいちゃんがさかんに照れていました。

この地には風葬の風習がありました。「初めての出産に失敗して亡くなった女性の大腿骨で作った笛」や、「グルとあがめられた人の頭蓋骨で作ったお椀」が大切な儀式に使われる品として、展示されていました。

民族舞踏歌謡ショー

モンゴルで思い出すのはあの「スーホの白い馬」の馬頭琴です。歌や踊りを楽しませてくれる劇場に行きました。 日本の伎楽のような面をつけた踊りは、現代風でリズミカルで飽きません。

ホーミー、馬頭琴の4重奏、オペレッタ、アクロバット、みな素晴らしいものでした。
ホーミーは、高音と低音を一緒に出す歌い方です。おもわず口の中に楽器が入っているのか、調べたくなるような歌い方でした。大草原の風に乗っていく歌なのです。馬頭琴は伝統の音楽の他、今回は「トルコ行進曲」を演奏してくれました。
 きれいなお兄さんやお姉さんがたくさんいて、とても楽しい演奏会でした。


ダムバダルジャー

 ダムバダルジャーは、旧日本人墓地で、今は記念塔になっている公園です。7月には皇太子殿下が訪問されると言うことで、花が植えられ、道の補修がなされていました。この墓地はノモンハン事件で亡くなった日本兵の為に作られたものです。
            
ノモンハン事件概要
1939年、5月12日、それまで満州国とモンゴル国国境付近(満州国はハルハ河、モンゴル国はノモンハンと主張)での小競り合いから、戦闘になった。6月から9月にかけての戦闘ではソ連軍の参戦により、日本軍は完膚なきまで叩きのめされた。戦死者および行方不明者8300名。その後、捕虜となってこの地で亡くなった人を合わせると18000人余となる。
戦争はむごいものです。そのむごさを正しく伝えてこそ、戦争の抑止になるのではないのでしょうか。折りしも高等学校の教科書で沖縄戦の集団自決に、日本軍が関わったことがあるのかと、文部科学省の検定で問題になっています。
世の中の常で、やったほうは、自分の行為を過小に評価し、忘れていきます。やられたほうは、決して忘れることはないでしょう。
 
  以前シンガポールの血債の塔を訪ねた時、塔の足元にこんな石版が嵌められていました。あの大戦で日本軍が何をしたか知らずに私は今日まで来ました。
 
  モンゴルにおいても亡くなった日本兵の遺体は長く放置されてきました。モンゴルにとっては、自国を侵 攻した、敵の人間です。しかし、赤十字の世話で遺骨がこの地に集められ、火葬に付され日本に返されました。そしてここに記念塔がたてられました。

戦争のためとはいえ、自分たちを苦しめた日本軍のためにこのような場所を提供してくださったこの国に感謝しました。

もちろんODAなどで日本政府は特別の配慮をしていると思います。でも、この記念塔を守ってくださっているのは、ODAとは関係のないおじさんでした。

この広場は音が良く響きます。「千の風になって」をみんなで歌ったら、気持ちよかっただろうなと今思います。日本の遺族会などが、ここに桜を植え、周りに色々な木を植えて、この丘の地すべりを防ごうと言う計画があると聞きました。

モンゴルの旅が終わりました。いろいろな方と出会い、知らなかった歴史や文化を垣間見ることができた楽しい旅でした。体が動き、好奇心が失せない間は、旅を続けたいと思います。お付き合いありがとうございました。


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