幡鎌さち江(24回)

【その7】

『人類は下り坂
−丘浅次郎と「ダーウィン」邦訳の謎―』

皆様、お久しぶりです。
「きまぐれ連載」で、これまで「丘 浅次郎」の業績、思想を紹介してまいりましたが、平成25年3月1日に静岡新聞社より『人類は下り坂 −丘浅次郎と「ダーウィン」邦訳の謎―』(幡鎌正周・幡鎌さち江 共著)が発行となりました。
丘浅次郎の新たな資料(明治24年〜27年のドイツ留学時)をライプチヒ大学やフライブルク大学から御提供頂き、筑波大学、造幣局博物館の資料などを加えて、丘浅次郎の生涯と業績に新たな光を与えた作品となっております。また、先に述べましたように、浜松北高の恩師(生物)の中村明先生(静岡県立大学名誉教授・旧制52回)をはじめ、元早稲田大学教授・筑波常治先生、筑波大学名誉教授・塩尻和子先生(元筑波大学副学長)、浜松北高恩師・松平和久先生、田中高志先生などの御協力を得まして刊行されました。

思うに歴史や偉人の業績の紹介といえば、単に過去の事跡をたどることを連想しがちですが、現代に生きる私達がそこから何を学ぶことができるかということが大切であると思います。

私たちが丘とその父の歩んだ道をたどる過程で学んだものは、幕末・明治という日本の近代史の新たな側面と現代に生きる者への貴重な教えでありました。日本が近世から近代へと生まれ変わるとき、弱小国である自国の立場を正確に把握していた指導者層が存在し、新しい時代の流れは過去をすべて破壊するのではなく、民衆自らが国家の危機を乗り越えようとする気概に満ちたものでした。また、いち早く欧米諸国に留学した国費留学生や、丘、山崎などのような志ある私費留学生たちによって、新時代を担う原動力が生まれ、様々な分野で近代国家への道が築かれてゆき、それら先人たちの歴史の上に現代があるのだということを改めて認識致しました。

荒廃する教育、混迷する政治・経済、環境破壊、自然災害、原発事故、文明の在り方などに至るまで、今、私達は様々な問題に直面しています。

丘の思想に一貫してながれていたものは、自由な思想と合理主義精神であり、人類が下り坂であると警鐘を鳴らすことによって、人類の歩みを生物の歴史の一つとしてとらえ、万物の霊長の幻想から目覚めさせるものでした。しかし、それは絶望ではなく、「科学を学ぶこと」が私たちに「真実を見極める目」と「正しい判断力」を与え、人類の未来に一筋の明るい希望の光を与えるものでありました。

(※尚、今回、刊行されました『人類は下り坂 −丘浅次郎と「ダーウィン」邦訳の謎―』は、谷島屋書店をはじめとする静岡県内の書店やアマゾンなどのネットでも購入できます。)



幡鎌さち江(24回)

【その6】

『進化と人生』丘浅次郎著
明治39年(1906年)初版本

☆魯迅などアジア人留学生にまで広く読まれた丘の社会文明論集として名高い。

皆様、お久しぶりです。
前回5回目で取上げました山崎覚次郎の実家「山崎邸」(掛川松ヶ岡)が、文化財保護の観点から取得保存して後世に残すという掛川市の取り組みが、先日、新聞報道されました。今後、地方の歴史が見直されるきっかけとなればと思っております。

さて、震災以来、原発問題、政治・経済・教育など様々な問題が噴出し、私たちも日本社会の行く末に無関心ではいられなくなってきた今日この頃です。

丘浅次郎は、明治から昭和初期の生物学者・教育者としての業績だけでなく、現代に通じる社会文明批評などを執筆した優れた思想家でもありました。
衆議院の解散選挙の話題など、なにかと年末にかけて世の中が騒がしくなってきましたが、本日はそのようなことに関連した丘の面白い文を御紹介致します。丘の著書『猿の群れから共和国まで』の中に「人間生活の矛盾」と題する次のような一節があります。

「今日の世の中で第一に気の付くのは形式と精神の矛盾である。『人間万事嘘ばかり』という古い本を読んだことがあるが、社会本能が退化してからの社会では精神がすでに変わっているから、如何なる形式もすべて嘘とならざるを得ない。例えば、代議士制度のごときも、本来ならば、選挙人が自分でこの人と思う人を選び、その人に頼んで代わりをつとめてもらうべきはずであるのに、今では誰からも頼まれもせぬ人間が自分で勝手に候補者と名乗り、なにとぞ私を選んで下さいと有権者の家を戸別に訪問して、平身低頭して頼んで歩く。また有権者のほうでは、この人をと思うような人がなかったり、たといあっても、とうてい出てくれそうもなかったりして、止むを得ず気に入らぬ人間に投票するか、棄権するかのいずれかにする。これが何で代議制と名づけられようか。しかも税を取りにくるときには、これは君らの選んだ代議士が可決したことであるから、君ら自身が可決したのも同じである。ぐずぐず言わずに早く出せと言うて請求する。運動費に何万円も費すところを見れば、当選してから必ずその何倍かの儲けがあるものと思われるが、かような自己本位的の行為は、社会本能がよほど退化した後でなければとうてい誰にもできぬことである。」
 この文が大正時代末期に書かれたとは、とても思われぬ痛快さです。現代社会の代議制の矛盾をそのまま突いていて、考えさせられるものがあります。
 
また、丘は「良心を疑う」という文の中で、次のように述べています。
「良心がとがめるのは、ただ顕われたら罰せられるおそれがあるような不正なことをした後だけであって、公然と行なうても罰せられる心配のないような不正のことならば、いくらしても良心は決してこれをとがめない。」
丘が言うように、不正なことが露顕しない場合、あるいは罰せられないと定まった時、良心の咎めどころか、平然と「自分は正しい」と主張する現代の政治家の姿がふと頭をよぎりましたが、それを感じる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

さて、今まで「きまぐれ連載」で丘浅次郎の業績や思想の一端を御紹介してきましたが、このたび、主人である幡鎌正周(直・北高18回)が数年来、研究してまいりました丘浅次郎についての本が、来年、静岡新聞社から刊行されることとなりました。
題名は『人類は下り坂 −丘浅次郎とダーウィン邦訳の謎―』です。
谷島屋書店など静岡県内の書店で1月中旬以降に発売される予定です。(私も少し手伝いましたので、私との共著となっています。)
また、浜松北高校の生物の恩師、中村明先生(静岡県立大学名誉教授・北高旧制52回)が「丘浅次郎先生に因んで」という文章を書いて下さり、この本の中に掲載されております。その他、造幣局より提供して頂いた史料の解読で国語の松平和久先生、文章の校閲・校正のアドバイスをして下さった田中高志先生など北高の恩師の先生方の御協力や多くの皆様の御支援を得て、出版の運びとなりました。(尚、限定部数の為、手に入らない場合や遠方の方で御希望の方は私宛に御一報下さい。)

では、またお会いしましょう!





幡鎌さち江(24回)

【その5】

山崎覚次郎
(経済学者 1868〜1945)

「ダーウィンの邦訳の起源」の連載も、いよいよ5回目となりました。
高校時代、ダーウィンの進化論『種の起源』を習ったことを御記憶の方も、多くいらっしゃったと思いますが、「丘浅次郎」の名を知る人は少なかったのではないでしょうか?

さて、丘浅次郎は東京帝大卒業後の明治24年、ドイツのフライブルグ大学とライプチヒ大学の2大学に留学し、優秀な成績を修めて帰国しました。この丘のドイツ留学のきっかけとなったのが、従兄弟、山崎覚次郎の存在でした。山崎覚次郎は、優れた業績を残した明治時代から戦前にかけての経済学者で、「国史大辞典」などにも載っていますが、郷土で知る人が少ないことは大変残念であります。
従いまして、今日は、丘浅次郎の従兄弟である山崎覚次郎博士について、少し御紹介をしたいと思います。

山崎覚次郎は、丘と同じく明治元年6月15日、掛川市に生まれました。父は山崎万右衛門(徳次郎)、母は丘浅次郎の伯母(丘秀興の姉)です。

山崎邸(掛川松ヶ岡)
昭和8年史蹟名勝記念物法の「聖蹟」に指定された。

山崎家(掛川松ヶ岡)は、代々、掛川藩の御用達を勤めた旧家で、掛川以外でも、浜松、横須賀、吉田の各藩、韮山代官等の大名旗本の金子御用達を勤めた家柄です。殊に、覚次郎の父、七代万右衛門(徳次郎)は、維新の変革に際して旧藩の負債整理にも参与。また更に同家の収入余剰を不動産に替えて、当時、県下屈指の富豪となっていました。
明治11年11月、山崎邸は明治天皇の北陸、東海、御巡幸に際して、10日間自宅を開放し御宿を賜り、当時「冀北(きほく)学舎」で学んでいた覚次郎(数え年11歳)も、自宅にて天皇に拝謁したと伝えられています。
(※尚、掛川の山崎邸は昭和8年に史蹟名勝天然記念物法の「聖蹟」に指定されました。)

明治15年の春、東大予備門入学の為、上京した覚次郎は『小説神髄』で有名な坪内逍遥の下に下宿します。そして、同年7月、同じく予備門入学の為、上京してきた浅次郎の同室を願い、共に逍遥の下に寄宿。逍遥の結婚披露宴にも招かれたと言われています。
そして、覚次郎は東京帝国大学卒業後の明治24年、浅次郎を誘い共にドイツに留学します。帰国は浅次郎より1年遅い明治28年のことで、その後、東京高等商業学校教授(旧東京商科大学、現在の一橋大学)となりました。

明治39年、東京帝国大学法科大学教授に就任。
大正2年、帝国学士院会員となって、大正8年東京帝国大学経済学部の新設に伴い、経済学部教授となり、大正9年から12年まで経済学部長を勤めました。
昭和4年、東京帝国大学名誉教授の称号を授けられ、大正15年から昭和5年まで東宮職御用係(後の宮内省御用係)として皇室の金融問題の顧問役を務め、金融学会の初代理事会長などを歴任し、昭和20年6月28日、78歳(数え年)で亡くなりました。

山崎覚次郎 翻訳『大工業論』
シュルツェ=ゲーファー二ッツ著
 (明治36年 初版本)

主著は『貨幣問題一斑』『貨幣瑣話』などがあり、また産業論の古典として有名なシュルツェ=ゲーファー二ッツの『大工業論』の翻訳者としても知られており、銀行論、貨幣論などの研究領域の基礎を築き、日本経済学発展の先駆的役割を果たしました。

丘浅次郎と山崎覚次郎は坪内逍遥の寄宿生となった少年時代から、互いに助け合い励まし合う良きライバルであり、後年まで、それぞれの分野での活躍を温かく見守っていた仲であったと云われています。
また、山崎覚次郎も丘とともに大変高潔な人柄で、自身の家系について殆ど語らなかったため、あまり静岡県では知られておりませんが、その業績は輝かしいものがあり、郷土の歴史として多くの人々に知って頂きたい先人の一人です。

それでは、次回をお楽しみに!






幡鎌さち江(24回)

【その4】

 英国の生物学者チャールズ・ダーウィン(1809〜1882年)が、『The  Origin  of  Species』(初版)を著し、生物進化の説を公にしたのは、1859年11月24日のことでした。そして、このダーウィンの進化論を、丘浅次郎が『種の起源』と命名・翻訳して、『動物学雑誌』に論文を発表したのは、その丁度、40年後の1899年(明治32年)であることが、最近の私たちの研究で明らかになりました。
 また、昨年、丘のドイツ留学中の貴重な史料を、留学先であったフライブルグ大学、ライプチヒ大学の御好意により提供して頂くことも出来ました。丘は、東京帝大卒業後の明治24年から3年間のドイツ留学において、ドクトルの学位試験で、論文も口答試験も「Summa  cum  laude」という最高等の評語をもって合格し、すでに留学中にドイツ、イギリスなどの専門雑誌に研究論文を発表していたことが分かりました。さらに、知られざる丘の家系の足跡、丘の思想の現代における普遍的価値、『種の起源』邦訳の謎の解明などについての研究成果をまとめ、現在、私たちは著書の刊行に向けて努力しています。

『中等教育 動物教科書』昭和8年7月発行 訂正11版(左)
※明治45年1月 第1版発行
『近世 動物学教科書』明治34年2月修正発行版 第2版(右)
※明治32年11月発行 第1版

 丘浅次郎は、明治から昭和初期にかけて多くの教科書を執筆し、我が国の生物学の先駆的役割を果たした人物でありますが、また、進化論をもとにした社会文明批評は、日本のみならず魯迅(ろじん)などのアジア人留学生にも大きな影響を与えたと言われています。
それでは、丘の社会文明批評をもとに、東日本大震災に関連して徒然なるままに記したことを御紹介しましょう。

 2011年3月11日に発生した想像を超える規模の巨大地震は、一瞬にして、すべてを破壊し、人類が築いてきた文明の利器の無力さを露呈しました。さらに、大津波は高度な科学技術の証であった原子力発電所を襲い、日本人に放射能汚染という嘗(かつ)てないほどの試練を課しました。人々が当たり前のことのように恩恵に浴してきた電力という文明の象徴が、実はひとたび事故に見舞われれば、制御不能となる魔物であることを思い知らされました。

 丘は関東大震災後の大正12年11月、「子孫を愍(あわれ)む」(※『猿の群れから共和国まで』)という文の中で、次のように述べています。
「このたびの地震や火事をもって天譴(てんけん)であると説く人があり、・・・人間が近ごろあまり調子に乗って贅沢になり過ぎ、世間一統が軽佻浮薄になったので、天がその非を悟らしめるために地震と火事とで譴(しか)ったのである。しかし、かような考え方は地球をもって宇宙の中心とし、人間をもって万物の中心とし、かつ人間と同じような喜怒哀楽の情を持った、しかも無色透明の瓦斯(ガス)体の生物が空中に住んでいるごとくに考えていた昔の思想の残り物であって、・・・20世紀の今日の世の中にはとうてい通用すべきものではない。」
 いつの時代でも天地災害を天罰であると述べる人がいますが、これはその地域に住む人々に対し、甚だ失礼な暴言であり、自然が公平無私であることは明白な事実です。

 また、日本は唯一の被爆国として、原子力の恐怖を他国よりも深く認識していたはずであり、地震・津波などに対しても、当然、最悪の事態を想定し、原発の安全対策がなされていると誰しも信じていました。しかし、「原発は安全だ」「地震の対策は万全だ」との安全神話を流布(るふ)してきた電力会社や国家は、人々に正しい知識を伝えることを怠り、ひとたび事故が起これば「想定外」との言い訳を繰り返すのみでした。自然の脅威を考量せず、低コストで二酸化炭素削減の切り札との原発の利点のみに心を奪われ、電力会社のみならず国を挙げて推進してきた原発の安全対策は、根拠を欠いた神話に過ぎなかったといえましょう。「人間はミスを犯すものだ」という観念を欠いた日本の原発事故は、自然災害というより人災である側面が大きく、この点においても自然災害の裏に潜む人間社会の奢(おご)りを示唆した丘の言葉の意味は深く、考えさせられるものがあります。

『猿の群れから共和国まで』 
大正15年5月 第1刷発行 の共立社版

「自然の復讐の最もはげしく最も残酷なのは、人間の社会生活の不条理なる点に起因するものである。これは人類の征服に対しての直接の復讐というよりも、むしろ人間の社会制度の欠点につけ込んで自然が行う間接の復讐と言うべきもので、社会の制度が今日のままに続く限りは、とうてい防ぐことはできぬ。自然には他の欠点につけ込むなどという人間らしい性質はむろんあるわけではない。落花心ありというのは見る人の心で、流水情ありというのも眺める人の情である。花自身、水自身にはもとより心もなく情もない。ただ自然は公平無私である代わりに冷淡無情である。」
〔※『煩悶(はんもん)と自由』より、「1 自然の復讐(明治44年11月)」〕

 今回の津波は、水の破壊力の凄まじさを見せつけた反面、水は現代社会の生命線であり、水を絶たれて初めてその有難さを思い知らされました。これは、津波に襲われた原発においても然りといえましょう。水によって破壊された原発が、唯一救済を求めたものは、冷温停止という水による救いであったことは、なんと皮肉なことではありませんか。 
 くしくも、この度の地震が教えてくれたものは、自然の脅威と自然の恩恵に対する私たち現代人の認識の甘さでした。

 思うに歴史を顧みれば、我が国は天災、とりわけ地震・津波とは切っても切れない縁を持つ土地柄ですが、専門家と称する人々は日本列島周辺の大地変動の長い歴史を考慮に入れず、過去の短い期間のデータから地震と津波を予測し、日本においてマグニチュード9.0という大地震が起こるとは想定しませんでした。

 21世紀の今日、人類は嘗てないほどの高度な技術を獲得し、エアコンの普及により夏の暑さも冬の寒さも克服して、大都会は不夜城のごとく灯りが点(とも)されています。また、大都市の地下は鉄道や地下街がどこまでも深く延び、地上では空に向かって、高層ビルや塔が、天に挑むかのように林立し、さらに眼を転ずれば、臨海の埋め立て地には、石油コンビナート等の施設が犇(ひしめ)き合っています。まさに、丘が言うように、大地震などの自然災害は、すべて我が知力によって克服したかのごとき有様と言えましょう。
 しかし、日本列島の地下に潜む地震という怪物は、いつどこで牙をむいても不思議ではないと言われていますが、現代は過去と同じ規模の地震であったとしても、便利さを追求した文明の利器が、かえって諸刃の剣と化して、甚大な被害を与えることも想定されます。
 そのことを考えれば、すべての機能を大都市に集中させた日本の安全対策は、果たして万全であるや否や・・・。

 丘は言う。
「昔はなくてすんだ問題が今は無数に現われ、しかもいずれの問題も時とともにますます複雑になって、いつ片付くことやら少しも見込みが立たぬ。これらの問題はみな声を励まして、『オイ、人間、貴様はこれでもまだ、自分は万物の霊で、急速力をもって天に昇りつつありとの夢から覚めぬのか』と怒鳴りながらしきりに人類を揺り動かしているのである。かく揺られながらいっこう平気で夢を見続けている人間は、実はあきれはてた寝坊と言わねばならぬ。」
〔※『煩悶と自由』より、「8 煩悶の時代(大正8年11月)」〕

 これは、人類への警告であると同時に、まさに今日の日本社会に対する戒めであると言えるのではないでしょうか。
 私たちは、今、これまでの文明のあり方を問われていますが、科学の可能性や文明の進歩を怖れてはいけません。怖れるべきものは、私たちの心の中に潜む慢心と怠惰、奢りです。人類の進歩は、「原子力の火の獲得」という新たな時代を迎えましたが、人類の叡智がパンドラの箱の中の絶望ではなく、「希望の火」に繋(つな)げることができるであろうことを祈らずにはいられません。
では、次回をお楽しみに!





幡鎌さち江(24回)

【その3】

日本において、ダーウィンの進化論が初めて紹介されたのは明治時代。当初、進化論は宗教的反発のないわが国では受け入れ易い土壌でしたが、その内容の把握は皮相的なものであると言われておりました。
ダーウィンの著『THE ORIGIN OF SPECIES』が、丘浅次郎によって日本で『種の起源』と命名・抄訳されたのは明治32年。さらに丘は、明治37年、「進化論は生物学の理論としてだけでなく、19世紀中、人間の思想に最も偉大な変化を起こした学問上の原理である」という考えから、広く一般の人々を啓蒙するため、『進化論講話』を刊行するに至りました。この平易な名文で著された進化論解説書は、洛陽の紙価を高らしめたと言われるほどの好評を博したと言われております。

『進化論講話』明治40年第7版、大正3年第11版

しかしながら、かつて進化論の「優勝劣敗・適者生存」の原理は、例えば、ナチのユダヤ人迫害政策のように誤解され、悪用されてきた歴史があります。現代においても、なお政治・経済など様々な場面で「適者生存・弱肉強食」が良いことのように使われ、「進化」という言葉が、「優れたものになった」という意味に誤って解釈され、「○○の進化」いう風に誤用されている場面に出遭うことが多いのは甚だ残念なことです。

丘は『進化論講話』の中で、「優勝劣敗・適者生存」の意味を次のように述べています。
「われわれが優者とみなす者が必ず勝ち、劣者とみなすものがいつも必ず敗れるとは限らぬ。ただその場合において生存に適するものが生存するという広い意味である。」

さらに「高等」「下等」についても、以下のような意味と説明しています。
「身体各部の分業が行われ、組織間に相違が生じて、そのため構造の複雑になった動物を高等動物と名づけ、分業が行われぬため構造のまだ簡単な動物を下等動物と名づける。・・・(中略)。しかし動物には身体構造の仕組みが根本から違う類がたくさんあるゆえ、世界中の動物を高等から下等へと一列に並べてしまうことはできぬ。なぜというに全く構造の仕組みが異なった動物を比較するには、あたかも時計と望遠鏡とを較べるようなもので、とうてい優劣を定めることのできぬ場合もはなはだ多いからである。・・・(中略)。かくの如きしだいゆえ、自然界においては高等生物と下等生物と相並んで生活しても必ず高等生物が下等生物を打ち亡ぼすとは限らず、ところによっては下等生物でなければ生存できぬこともずいぶん多い・・・(中略)。高等動物といい、下等動物というのは、単に構造上から見たことで、おのおの現在生活する境遇に適するということには、決して甲乙の差はない。」

『生物学講話』大正5年1月初版

 動物学者であった丘直通博士(丘浅次郎の五男)と三島の国立遺伝学研究所で若い頃御一緒したという私たちの浜松北高の「生物」の恩師、中村明先生(静岡県立大名誉教授)は,「丘浅次郎先生に因んで」という文の中で、次のように仰っています。
「5千万種とも言われるような多数の生物種も、どれが優れているとか、劣っているのではなく、それぞれがその意義をもって共存して、生物生態系を形成しているのである。最近、生物多様性の重要性が認識されるようになり、絶滅生物が危惧されるようになってきたことは、大きな進歩である。・・・(中略)。嘗て、アメリカのイエローストーン公園でオオカミは鹿の敵だと思われていたが、オオカミを絶滅させたら、却って鹿は衰えてしまい、再びカナダからオオカミを導入している。鹿とオオカミは共生状態(共進化)であることが解ったのは有名な事実である。・・・(中略)。もし弱肉強食、適者生存でより強いものだけが生き残るとしたならば、この地球上に生物多様性はなくなるなずであるが、現実には多様性があってこそ、すべての生物が活力を持つ。諺の『風が吹けば桶屋が儲かる』の如く、地球上の生物は、お互いに関連し競い合いながら、相互に恩恵を交換して多様化し、共進化してきたのである。
 最優勝者として他者を排することが生物の進化ではない。」

 丘は、さらに人類の将来に対して、次のような警告を明治42年という時期に既に発しています。
「一時地球の表面に優勢の位地を占めていた動物種属は、いずれも初めその種属をして他の動物に打ち勝って、優勢の位地に達せしめたその同じ性質が、やがてはかえってわざわいをなして、そのためにことごとく滅び失せてしもうたが、さて人類はどうであろうか。人類はひとり他の動物とは全く違うて、人類をして、今日の優勢なる位地に達せしめた脳と手との力により、言語と器械とを使用して、今後も永久限りなくますます栄えゆくであろうか。はたまた・・・あたかも空に向かって投げた石がおちくるときのごときパラボラ線を画いて一刻ごとに速力を増しつつ滅亡の運命に向かって進ましめおるごときことはないであろうか。」
 これは、現代社会が抱える問題を鋭く指摘しており、特に人類の叡智の結晶であったはずの原子力が一歩使い方を誤れば、諸刃の剣と化して、私たち人類を破滅に導くことを示唆しているのではないでしょうか。






幡鎌さち江(24回)

【その2】

丘浅次郎の「きまぐれ連載、その2」長らくお待たせ致しました。

さて筆を執る前に、3月11日の東日本大震災で、犠牲になられた方々に哀悼の意を深く捧げるとともに、被害に遭われた人々に心よりお見舞い申し上げます。

今回の地震で、自然の脅威の前に人間の築いてきた文明の無力さを感じている方も多いことと思いますが、丘浅次郎は、私たちの文明の脆さと人類の奢りを既に明治時代に指摘し、科学者の責務として警告を発しておりました。
歴史的に見れば、環境汚染、環境破壊の問題が広く認知されるようになったのは1962年のレイチェル・カーソン著『沈黙の春』などの登場によりますが、注目に値するのは、それより50年以上前の1911年(明治44年)に丘は『自然の復讐』という次のような文を書いていることです。
「われわれが、自然を征服し得たりと思うて、得々としている間に、・・・見えぬところで絶えず彼が仇返しをなしておるようなことがないだろうか。このような問題は、今日の人類を標準にし、今日の世の中だけを見、目前の勝利に心を奪われて、ただ文明を謳歌しおる人等には、おそらく胸に浮かぶことさえないであろうが、・・・。」と前置きして、森林伐採による洪水被害、ある生物の乱獲は生態系の乱れを引き起こし、人間生活にも被害を及ぼすこと、工場排水は海の資源の枯渇に繋がるということを述べ、さらに「人類の体質の低下」と「新たな病気の出現」などについて記述していることは特筆に価します。

『進化論講話』(明治37年刊行・開成館)

人間が自己の脳髄によって考え出したことを万世不変の真理であるかのごとく考え、奢りをもって自然を征服できると錯覚するならば、私たちの未来に思わぬ暗い翳を落す事態を招きかねません。それは、人類の叡智の結晶であったはずの原発が自然の脅威の前に魔物と化したことが示唆しているのではないでしょうか。

進化論の有用性は人間の素性を明らかにすることにより、人類の奢りを棄てて謙虚に物事を考え得る人間を育てることにあると言われています。
それでは、丘の代表作『進化論講話』(明治37年刊行)の一節を紹介します。

「人間は猿類の一種であって、他の猿等と共同な先祖から降ったという考えが初めて発表せられたときには、世間から非常な攻撃をこうむった。今日ではこの事はもはや確定した事実であるが、なおこれを疑って攻撃する人々が決して少なくない。しかし、かように攻撃の激しい理由を探ると、決して理解力から起こるのではなく、皆感情に基づくようである。獣類は自分とはなはだ似たものであるにかかわらず、特に畜生と名づけて常にこれを卑しみ、他人に向かって、獣とか犬・猫とか畜生というのは非常な悪口であると心得ているところへ、人間は猿類と共同先祖から降ったと言い聞かされたのであるから、自分の価値を甚だしく下げられた如くに感じ、せっかく今まで万物の霊長であったのを、急に畜生と同等な段まで引き落とそうとは、実にけしからぬ説であるとの情が基礎となって、種々の方面から攻撃が起こったのに過ぎぬ。わが先祖は藤原の朝臣某であるとか、わが兄の妻は従何位侯爵某の落胤であるとかいって、自慢したいのが普通の人情であることを思えば、先祖は獣類で、親類は猿であると聞いて、喜ばぬのも無理ではないが、よく考えてみるに、下等の獣類から起こりながら、今日の文明開化の度まで進んだと思えば、なおこの後もますます進歩すべき望みがあるゆえ、極めて嬉しく感ずべきはずである。もしこれに反して完全無欠の神とでもいうべきものから降った人間が、新聞紙の三面記事に毎日無限の材料を供給するようになったと考えたならば、この先どこまで堕落するかわからぬとの感じが起こって、はなはだ心細くなるわけである。それゆえ、いささかでも理屈を考える人であれば、感情の点から言っても進化論を嫌うべき理由は少しもない。」

では次回をお楽しみに。

明治百年記念出版
『丘浅次郎著作集(全6巻)』(有精堂)




幡鎌さち江(24回)

【その1】

皆さん、「丘浅次郎」という名前をご存知ですか?
磐田市竜洋町掛塚の出身で、明治〜昭和初期に活躍した動物学者です。

丘浅次郎(1868〜1944)

学生時代に教科書で習ったダーウィンの進化論「種の起源」は、皆さん、御記憶にある方も多いと思います。しかし、私も、つい最近まで、その「種の起源」の命名、翻訳者が、掛塚の出身だったとは、知りませんでした。
丘浅次郎は、明治元年生まれですが、明治新政府が「大阪造幣局」を開設した時、父秀興が幹部として抜擢され、生後数ヶ月で、一家で大阪の官舎に移住、外国人の子弟等と交わり、当時としては最先端の教育を受けました。しかし、12歳の時、父が急死し、相次いで母も亡くなりますが、祖母や伯母の尽力で、数え年15歳の時、東京帝国大学予備門入学の為、上京。すでに数ヶ月前に上京していた従兄弟、山崎覚次郎(掛川市出身、後の東京帝国大学名誉教授で経済学者)の寄宿先を訪れ、同宿を願います。その寄宿先というのは、『小説神髄』で有名な文学者、坪内逍遥の下です。

『種之起原』(明治38年刊行・初版本)

東京帝大卒業後、明治24年、山崎覚次郎と共に、ドイツ留学し、明治27年、優秀な成績でライプチヒ大学を卒業、帰国後、山口高等学校教授、東京高等師範学校教授などを勤めるかたわら、ダーウィンの進化論の普及と啓蒙を行い、日本の生物学の発展と思想史に多大な足跡を残した人物です。十カ国以上の語学に通じ、明治37年に刊行された著書『進化論講話』は、当時、大ベストセラーとなり、その反響により、翌年、丘の手になる『種之起原』が発行されました。(※『種の起源』の命名、翻訳者は、長く専門家の間でも謎でしたが、最近、私どもの研究で新資料が見つかり、昨年、日経新聞・文化面にも掲載され、現在、主人と共にその間の事情や丘の思想などに関する本を作ろうと奮闘中です。)

丘浅次郎は、戦前まで、生物学者、教育者としても高名でありましたが、さらに社会文明批評など思想史の上でも大きな影響を与え、また、その合理精神に満ちたユーモア溢れる明快な文は、当時、多くの知識人に愛読されました。そして、現代の私たちが読んでも、大変面白く、新鮮で、今ふたたび、多くの人々に再評価されることを期待しております。
次回から、「気まぐれ連載」で、とても興味深い、丘の著作の一部を御紹介したいと思います。
乞うご期待?!
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