第29回 亥の子餅と紫の上
「亥の子餅」とは十二支の亥の月にあたる、旧暦10月の亥の日、亥の刻(夜9時〜11時)に万病を除くために食べる餅で、中国より伝来したものだそうです。多産なイノシシにあやかって子孫繁栄を願う意味もありました。わたしは京都に来るまで「亥の子餅」という名前すら知りませんでした。11月になると、お店にもよりますが、店頭で見かけます。
もともと平安時代の宮中で亥の月、一の亥の日に御玄猪という行事がありました。新米にその年収穫した大豆・小豆・大角豆(ササゲ)・胡麻・栗・柿・糖(あめ)の7種の粉を合わせ、亥の子つまりイノシシの子どもであるウリ坊の形の餅を作り、内蔵寮(くらりょう)より奉ったとのことです。
『源氏物語』第9帖「葵」に亥の子餅が登場する場面があります。正妻、葵の上が六条御息所の生霊の仕業で、難産の末、男子夕霧を出産しますが8月20日に急死します。そして、四十九日が済んでまもなく、源氏は紫の上と密かに結婚します。その新婚第2夜に亥の子餅が出て来ます。
「・・・その夜さり亥の子餅参らせたり。かかる御思ひのほどなれば、ことことしきさまにはあらで、こなたばかりに、をかしげなる檜破籠などばかりを、色々にて参れる・・・」
瀬戸内寂聴訳によりますと、「その夜のことです。たまたま10月初めの亥の日に当たっていましたので、亥の子の餅を、さし上げました。まだ喪中のことですから、大袈裟にはしないで、姫君のほうにだけ、風流な檜破籠(ひわりご=檜の薄板で作った被せ蓋の容器)などに餅を入れて、さまざまな趣向をこらしてさし上げたのです。」
亥の子餅はイノシシの形であったのですが、室町末期以降、明治まで紅(小豆)・白(粟)・黒(胡麻)の三色で碁石のような形をした平小餅との記録もあり、餅の形状はさまざまであったようです。
今日11月19日はちょうど旧暦亥の月、二の亥の日にあたることを友人が教えてくれました。映画を見に四条烏丸へ行きましたので、3箇所の和菓子屋さんで、亥の子餅を求めて来ました。
1つ目は<『源氏物語』にみえる菓子>という文献で、ある夜紫の上のもとに届けられたことを教えてくれた「とらや」の亥の子餅です。鎌倉時代の百科全書『二中歴』にある製法を参考に、きな粉・干し柿・黒ごまを混ぜ込んだ餅製の生地で、御膳餡(こしあん)を包んでありました。
2つ目は第23回の落とし文で取り上げた「京都鶴屋 鶴寿庵」。この美しい餅の色は着色して白ごまを混ぜています。中は白こしあんです。柔らかい餅と 白こしあんが溶け合って、上品なお味でした。
3つ目は私の和菓子生活に多大な影響を与えている「仙太郎」です。1つから買える仙太郎にはめずらしく、6個の箱入りでした。昔、亥の子餅は贈答に使われたそうですから、そのためのものかもしれません。ゆで小豆を餅に搗き混ぜたもので、こしあんを包んでいます。さらっとした感じのこしあんが小豆の香りのする餅とマッチしていました。
旧暦10月、最初の亥の日は茶の湯の世界では、夏向きの風炉をしまい、炉に切り替える「炉開き」の日とされ、亥の子餅が用いられます。また、昔京都の家々ではこの日から炬燵や火鉢に火を入れたそうです。亥が暦の上で、北の方角を示し、北は陰陽五行説の水性であることから、亥の日に炬燵を開くと火難を免れるといった故事があります。そのほか、イノシシは火伏せの神である愛宕神社のお使いと言われているのも理由の一つのようです。
亥の刻に食して、無病息災を願い子孫繁栄を祈るため、今日は夕食後9時に頂きました。こんな遅くにお茶を飲んだら眠れなくなってしまうので、家族には抹茶を点てましたが、私だけ番茶にしました。これがよく合って美味しかったのです。仙太郎のしおりを読み直すと、「熱い番茶でお祝いください」とありました。6個入りということで、わたしだけもう1つ頂きました。
紫の上が召し上がったのはどんな餅だったのか、源氏物語には書かれていません。ただ、紫の上は子を産むことなく亡くなってしまいます。理想の女性として最も源氏に愛されたのに、紫式部はなぜこのような運命を与えたのか、と
考えてしまった秋の夜でした。
参考文献 |
川端道喜 『和菓子の京都』 岩波新書1990年 |
『源氏物語』にみえる菓子 第70回虎屋文庫資料展 源氏物語千年紀「源氏物語と和菓子」展 虎屋文庫 2008年5月
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『今月使いたい茶席の和菓子』淡交社 2011年 |
中村孝也 『和菓子の系譜』 図書刊行会 1990年 |
瀬戸内寂聴『源氏物語 巻二』 講談社 2001年10月 |
直中 護 『和菓子歳時記——亥の子餅』 2000年10月 |
(2015.11.19 高25回 堀川佐江子記) |