回 栗むし羊羹

秋の味覚の代表格、栗を使った和菓子といえば「栗むし羊羹」です。私の栗むし羊羹好きは子どもの頃、浜松田町の「梅月」のを頂いていたことによるのではと思います。
 切り口2,5㎝四方、長さ18㎝ほどの直方体で表面に晒(さらし)の布目がついた蒸し羊羹で、簡素な包装をしただけの、いかにも中身で勝負のお菓子でした。もちっとした感触と柔らかい栗が口の中で程よく溶け合い、日持ちしないことをいいことに、切っては頂くというお代わりを繰り返していました。

さて、京都で出会った栗むし羊羹といえば、やはり「甘泉堂」です。第5回で取り上げた水羊羹のお店です。9月末で水羊羹は終了、10月1日から3月いっぱいまでが栗むし羊羹の販売です。
 甘泉堂のは漉し餡に小麦粉を入れ、練り、栗を入れたものを型に流すのではなく、竹の皮に包んで蒸し上げています。それで、竹の皮の香りがほんのりついて趣があります。甘さはかなり控えめ、そしてここのは小麦粉が少なく、餡の量が多いせいか、あまりもっちりせずに漉し餡のおいしさが際立つ、贅沢な蒸し羊羹です。
 一昨日もお店に伺って少しお話を聞いて参りました。「水羊羹と栗蒸し羊羹とどちらが先に作り始めたか」との質問に「知らん」との答えでした。
 お店の天井に近い所に大きな螺鈿(らでん=貝殻の内側、虹色光沢をもつ真珠層の部分を切り出し工芸品に使う装飾)の櫃、入れ物が2つ、お店を見下ろすように鎮座しているのが前々から気になっていました。それは配達に使った岡持(おかもち)で、中にはお菓子を入れた重箱を入れ、注文主の所に運んだとのことです。岡持という言葉は蕎麦屋が出前の時に使う木製の手提げの箱のことと思っていた私は、この立派な螺鈿のものも同じ名前かとビックリしました。そういえば、第4回で取り上げた、くずきりの鍵善さんにも同じ螺鈿の岡持が店の棚の上部に飾ってあります。

もうひとつ京都の栗むし羊羹でお勧めしたいのは「仙太郎」という和菓子屋さんのものです。ここは明治19年創業、割と新しいお店ですが、丹波(京都府北部)にある自社工場の敷地内で米、小豆の栽培はもとより、栗園まで自前とのことです。
 仙太郎の栗むし羊羹は「水無月」のように二等辺三角形に切り分けられて売っています。栗がびっしり、まさにごろごろ乗っかっていて、たっぷり栗を味わうことができます。
 その栗について、仙太郎の先代が「和菓子歳時記」に書いていることを引用させていただきます。「丹波の栗はその実、大きく、甘み、香ぐわしさ、また和菓子の素材として欠かせぬ粘着性、そのどれ一つをとっても、まさに栗の王者である。丹波の気候風土は町の中を由良川が流れ、谷が深く昼間と夜間、明け方の温度差が大きいことが栗の生育に幸いしている様である。即ち、明け方の冷え込みが栗の実の糖の消耗を抑え更には粘着性が増し、美味となるのである。」工場敷地内には栗の木150本、1.3トンもの収穫があるそうです。
 仙太郎は百貨店にもいくつか出店していますが、拙宅近くの山科店は寺町仏光寺通りにある本店の次にできた路面店です。今の時期、お店に行くと、中で数名の女性がせっせと栗剥きをしていて驚きました。

浜松にもう一度戻ります。忘れてはいけないのが「巖邑堂」の栗むし羊羹です。明治5年の創業、伝馬町の地で今でもここ1店舗でのみ商いをしています。「梅月」が郊外に移転してしまった為、私は浜松に帰ると自転車で巖邑堂に買いに行っています。お店に隣接した工房で5代目当主や職人さん達がお菓子を作っているのが垣間見え、作りたてを味わえる喜びを感じます。地元掛川産の栗を1つ1つ手剥きし、自家製餡で作っているそうです。

「風味」と「程よい口どけ」が身上の栗むし羊羹。秋の私の楽しみはこれに尽きます。

 

参考文献 直中護「丹波の栗」(『和菓子歳時記』2005)

(2013.10.28記)

 

 

回 水羊羹

京都の夏の暑さは格別でして、とくに今年の猛暑には参っています。浜松も日中は暑いのですが、夜になると気温が下がり、熱帯夜になる日数は少ないのではないでしょうか。35年も京都の夏を体験しながらこの暑さには一向に慣れません。年々体にこたえるばかりです。

そんな京都で、一口、口にしたら爽やかな涼風が吹いたような気分を味わえるのが、今回ご紹介する甘泉堂の水羊羹です。十分にこしてこして、きめの細かい餡と寒ざらしの寒天でできる水羊羹は絹の舌ざわりで、すべるように喉を通り、甘みは残らず、小豆の香りが広がります。
 「京都でいちばん最初に水羊羹をつくらはったんは、甘泉堂はんどすなーと、あるお菓子屋さんがいうてはった」と書かれたのは随筆家の大村しげさん(故人)です。

最近、青竹に水羊羹が流し込んであって、笹の葉でふたがしてあるものを売る店が増えてきました。 私が最初に求めたのは先斗町駿河屋の「竹露(ちくろ)」でした。青竹の底に穴を開けるキリがついていて、それで小さな穴を開け、笹の葉を取って吸うとするすると口へ入ります。上品に食べようとして底に開けた穴をそっと吹いて、銘々皿なり、懐紙の上へするっと出し、黒文字で頂こうとしてもその吹き方が少しでも強いと水羊羹はお皿の向こうへ飛んで出てしまいます。人前では少々技を要する水羊羹です。そんなわけで、お遣いものには竹筒入りの水羊羹はおしゃれですが、家ではもっぱら甘泉堂の水羊羹です。

ところで、冬に食する水羊羹をご存じでしょうか。田丸弥という胡麻あえをおせんべいにした「白川路」で有名なお店が、冷え込む日のみ作っている「京の冬」という水羊羹があります。あいにく、私はまだ味わったことがなく、先の大村しげさんの文章で知りました。1月の寒の頃、あしたの朝はきっと冷え込みが厳しいだろうと思った時、夜から小豆を炊き始め、その小豆の汁に寒天を混ぜて、ぐつぐつと煮えた熱いもんを塗りの薄い箱へ流し込み、明け方の冷気でそれを固める。そして、越前塗りの船のまま、大村さんの家に届くのだそうです。今も届けられているお宅はあるのでしょうか。

また、福井にも冬に水羊羹があります。何年か前、家族が福井へ行った折、「冬なのに水羊羹を売っていた」と買って来てくれました。不思議な感じでしたがへらで切り分け、賞味しました。
 今回、福井出身の親友に問い合わせましたら、「黒砂糖とこし餡と寒天で作った水っぽい羊羹を浅い紙箱から切り分けて、こたつに入って食べるのが、福井の風物詩です。江川の水羊かんが一番有名だと思います」とのこと。まさに、以前私たちが口にしたのがここのでした。

さて、甘泉堂の水羊羹に戻ります。京都で暮らし初めて最初の初夏にこれに出会った時の衝撃は忘れられません。口の中で溶けてしまいそうな、この瑞々しさが水羊羹なのかと一人納得してしまいました。それ以来、私にとって京都の夏になくてはならないものになりました。京都の和菓子の中で一つだけ選ぶとしたら、この甘泉堂の水羊羹以外考えられません。
 お店は祇園四条通の花見小路より1本東の路地を北に入ったところにあります。路地に面して、ショーケースの手前のガラス戸を開けてやりとりすることもできますが、私は左の玄関から入り、最近はそこにあるお座布団に座って、奥様とおしゃべりをします。先月17日、祇園祭の神輿が出発する前も少し時間がありましたので、「第4回 祇園祭」で取り上げた宮本組のことや、祭のご奉賛(寄付)のことなどを伺いました。

以前はゴールデンウィークから9月末までの販売でしたが、最近はお客さんの要望で4月1日から売っています。私は静岡の新茶が届く頃から、お店に足が向いてしまいます。

 

参考文献:鈴木宗康・大村しげ(監修)『京のお菓子』中央公論社 1978

(2013.8.15記)

 

 

回 祇園祭

 祇園祭は八坂神社のお祭で、7月1日の吉符入りから31日の夏越の祓えまでの1ヶ月間さまざまな神事や祭事が行われます。八坂神社は京都の中心街、四条通を東に突き当たったところにあります。

 私が祇園祭を初めて意識したのは中学2年生の時でした。当時八幡中学校では年に1度、映画鑑賞のために全校生徒を劇場まで連れて行ってくれました。確か、中央劇場までぞろぞろ歩いて「祇園祭」(1968)という映画を見に行きました。中村錦之介主演、岩下志麻、美空ひばり、三船敏郎他オールスター(懐かしい言葉です)が出演し、応仁の乱で中断していた祭を、町衆が結束して復活させようという壮大で面白い映画でした。

 さて、祇園祭は17日の山鉾巡行がハイライトとよく言われ、その前夜の宵山、前々夜の宵々山とともに多くの人が繰り出しますが、今回は別の面から、神事としての祇園祭を取り上げてみたいと思います。

 祇園祭は疫病退散を祈願した祇園御霊会(ごりょうえ)が始まりです。平安時代初期、都に疫病が大流行しました。当時の人々はこれを怨霊(つまり政治的に失脚して処刑された人の怨み)による祟りととらえ、怨霊が疫神となって猛威をふるっていると考えました。そこで、疫神を鎮めるために平安京の広大な庭園であった神泉苑に、日本の国の数である66の鉾を立てて祭を行い、さらに祇園社から神泉苑に神輿(みこし)を送り、災厄の除去を祈ったのが御霊会です。

3年ほど前、10年来の知り合いの方が、八坂神社の氏子組織の筆頭である「宮本組」の組長であることを新聞記事で知り驚きました。その方は江戸享保年間から続くお菓子屋さんのご主人です。そもそも「宮本組」という言葉すら知らなかったのですが、八坂神社のお膝元、つまり宮本(みやもと)で神社に奉仕する人たちのことで、これも平安時代からあると言うことです。

 宮本組が執り行う大切な神事は、まず7月10日の「神輿洗式」です。午前10時に神輿を洗い清める神水を鴨川から汲み上げます。これは鴨川の水の神様をまず神輿に迎え、八坂さんへ奉じることが祇園祭の神事の始まりであるという象徴的で、一番厳粛な神事です。そして夜8時、八坂神社より御祭神の一つである素戔嗚尊(スサノオノミコト)の神輿が四条大橋に担ぎ出され、朝に汲んだ神水がかけられ祓い清められます。このしぶきを浴びると疫病神を祓うことができるということで、橋の上は黒山の人だかりになるそうです。神輿はこの後、八坂神社に戻ります。
 15日の宵宮祭で御神霊を遷(うつ)した神輿、中御座(六角形、前述のスサノオノミコト)、東御座(四角形、クシイナダヒメノミコト=スサノオの妻)、西御座(八角形、ヤハシラノミコガミ=夫妻の子供たち)の三基が17日、つまり山鉾巡行のおこなわれた後の夕刻、神幸祭として八坂神社を出発(写真上)、鴨川以西の河原町など氏子区域をそれぞれ別ルートで巡って、同日夜に四条寺町の御旅所に入り安置されるまでを「神輿渡御(みこしとぎょ)」といい、これがもっとも大切な神事です。この巡行で神輿に厄災を拾い集めるのだそうです。
 昼間行われる山鉾巡行はこの神輿来訪のためのいわば露払い、お清めのような意味合いがあるわけです。

 この神輿渡御(写真右)のとき、神輿を先導して御神宝(神様の装束や剣、琴など)を奉持しているのがまさしく「宮本組」の人たちなのです。そしてその御神宝は神輿とともに四条御旅所に安置されます。24日の還幸祭で神輿が八坂神社にお帰りになる時も、御神宝を持つことを許されているのは古来より「宮本組」だけです。

 28日には再び神輿洗いが行われ、祭が無事終了したことを感謝して清められます。

 さて、今回のお菓子ですが、先に触れました宮本組組長のお店「鍵善良房」さんの「くずきり」をご紹介します。つるんとした喉ごし、絶妙なコシの強さが身上です。材料は葛と黒糖蜜、そして水のみ。葛を水で溶き、湯煎して冷水にとり、細く切るだけ。それが何のにごりもない透明な氷水の入った独特の容器の中でゆらゆらと泳いでいます。カランカランと涼しげな氷の音をさせながら、黒糖蜜につけていただきます。元々、昭和に入った頃、界隈のお茶屋さんや南座の芝居見物のお客様にデザートとして出前していたのが始まりで、昭和30年代に口づてに評判となり、喫茶室でお出しするようになったそうです。私が京都で暮らし始めて間もない頃、お店の急な階段を上り、こじんまりした部屋でいただいた「くずきり」に感動したことをよく覚えています。
 この冗談のような猛暑の京都にいると、「祇園祭」の見物に行く元気はありませんが「くずきり」は食べに行きたくなります。

(2013.7.12記)

 

 

回 水無月

 水無月とは6月のことですが、京都には6月30日に食べる「水無月」というお菓子があります。最近では5月半ば頃からあちこちの和菓子屋さんで「水無月」と書かれた貼り紙やのぼりが見られ、初夏の風物詩となっています。
「水無月」は、外郎生地(上新粉つまり米粉や、小麦粉と砂糖を混ぜて蒸しあげたもの)の上に小豆の粒を敷き詰めてさらに蒸し、三角形に切ってあります。三角形は氷を表しています。
旧暦6月は現在の7月くらい、炎天が続き、水涸れのする盛夏の月でした。旧暦6月1日は「氷室の節会」といい、御所では冬のうちに貯蔵しておいた氷室の氷を取り寄せ、口にすると夏やせしないということで、臣下に分かち与えていました。  
 もう一つの説としては、「夏越しの祓え」の神事に使う御幣の形を模しているというのもあります。上に乗っている小豆は古来より邪気を祓うと信じられていました。
 余談ですが、外郎というと浜松では名古屋のういろうを思い浮かべる方がいらっしゃるかもしれませんが、全く違います。名古屋のは真空パックになっているせいか、ぼそぼそしますね。名古屋の方がいらしたらごめんなさい。

 さて「夏越しの祓え」は平安時代の記録にも残る古い行事です。暑さが厳しく、病も流行りやすいこの時期、そしてちょうど1年の半分が終わる6月の末日に厄祓いを願い、残り半年の無病息災を祈願する神事が今でもいくつかの神社で行われています。
 私も浜松にいた頃、近所の八幡宮より紙の人形(ひとがた)が町内会を通して配られ、全身をなでて納めておりました。京都に来て、右京区に住んでいた頃は車折(くるまざき)神社の茅の輪をくぐりに行ったこともあります。鳥居の内側にすっぽり入るくらいの大きな茅の輪です。茅(かや、ちがや)は昔からその旺盛な生命力によって災厄を除く神秘的な威力を持つと考えられていました。これにちなんで、「夏越しの祓え」には茅の輪をくぐって厄を逃れる神事が連綿と受け継がれているのです。

 ところで、お菓子の「水無月」ですが、どこが最初に作り始めたのかは調べてもわかりませんでした。京都の庶民が暑気払いにと6月30日に食べるようになったのは、6月1日の氷室の節会と30日の夏越しの祓えを結びつけ、菓子屋が考案したものという文献を見つけました。土用の鰻と同じですね。普通は氷に見立て外郎生地は白いのですが、黒糖で作り始めたのは御所の南向かい、丸太町通りに面した「亀屋廣永」さんということで、今回久しぶりにお店に行って来ました。
 最近では、抹茶入りの生地に小豆、または青エンドウ豆を乗せたものもあります。この抹茶水無月は、宇治平等院への参道口にある宇治駿河屋さんのものが絶品です。さすが茶どころ宇治、茶団子で有名なお店だけのことはあります。毎年、6月末の1週間京都大丸に出店するのですが、今年はなぜか6月初頭に来ていました。うれしくて、3回も買いに行ってしまいました。どこにもないニッキ入りのがあったのも魅力でした。上の写真はこの宇治駿河屋さんの水無月です。左から白、抹茶、ニッキでして、1つ160円です。

 6月30日には、和菓子屋さんで水無月を買い求める人が長蛇の列になります。「これを食べへんと夏を越せへん」ということです。そして、7月1日からはいよいよ祇園祭が始まります。



参考文献 浅田ひろみ「水無月考」『和菓子』9(2002)

(2013.6.26記)

 

 

回 ちまきと川端道喜

 京都のことをあれこれ語るのに、私の大好きな和菓子をテーマにして書いていこうと思います。

 前回、京都御所出入りの川端道喜について少し触れましたがこの川端道喜という菓子屋は1503年頃の創業、室町時代より御所に行事の為の餅やちまきを納めてきた老舗の中の老舗です。応仁の乱の後、都は荒廃し、朝廷のご難渋は召し上がりものにも事欠くほどで、その時、道喜が毎朝献上した餅は「御朝物(おあさのもの)」と呼ばれ、明治維新まで350年もの間「朝餉(あさがれい)の儀」として続いたというのですから驚きます。詳しいことは15代目川端道喜が岩波新書『和菓子の京都』(1990)に書いています。

 昨年末、ひょんなことから16代目の奥様と知り合う機会があり、その御朝物を何年か前に姑である15代目夫人とともに再現した話を伺いました。搗き餅を芯にして、外を塩味の小豆の潰し餡で丸め、野球のボールより少し大きめの形にしたもので、後々は砂糖を少し敷いて、召し上がったと伝えられているそうです。正親町(おおぎまち)天皇くらいまでは召し上がっていたようですが、後水尾天皇の頃には江戸時代になり、幕府から財政援助もあり、もうただご覧になるだけになったようです。ところで、この16代目の奥様は日本画家で、秋野不矩さんとも関わりがあったとのことです。なにかご縁を感じました。

 350年間毎朝6個ずつ届けた御所の出入り口は通称「道喜門」と呼ばれ、紫宸殿の真正面「建礼門」のすぐ東側に今でもあります。1月のしらはぎ会京都旅行のとき、確認して参りましたが、京都御所のパンフレットには「穴門」と小さく書かれていました。

 

 さて、その道喜のちまきです。店ののれんには「御ちまき司 どうき」と染め抜かれています。「御」という字をつけるのは禁裏御用という意味あいで、つまり江戸時代までは御所御用ということでした。よく「御用達」(関東ではごようたし、関西ではごようたつ)という言葉を聞きますが、これは明治以降の用語だそうです。
 ちまきのルーツは中国の屈原の故事にあるようです。日本には奈良時代、仏教と相前後して五節句の節物(せちもの)として渡来したといわれています。いつ頃から食するようになったかは不明ですが、京都ではちまきといえば厄除け祈願と結びつけられています。祇園祭の時、各鉾町で売っているちまきを求めて、家々の玄関先にぶら下げる風習があります。ちまきを巻く笹の防菌作用に由来しているのでしょうか。

 

 道喜のちまきは吉野葛を練って作った半透明の白い「水仙粽」、それに漉し餡を練り込んだ「羊羹粽」の2種類でどちらも味は淡泊で上品です。1本のちまきに笹を4,5枚使いきっちりと包み、藺草(いぐさ)の殻で巻き締め5本を1つに束ねて、熱湯のぐらぐら煮立っている中へ放り込みます。湯がくことによって、糖分が適度に抜けて、ほどよい甘さになるのだそうです。笹も熱湯をくぐらすことで落ち着いた色合いになります。随分前から良質の笹や吉野葛が入手しづらくなり、材料の確保に苦労されているとのことです。
 念のため申し添えますが、祇園祭の時に鉾町で売られている厄除けちまきは食べられません。

 現在の川端道喜はかつての御所近くから何度か居を移し、下鴨本通り北山南西角にあります。5月と7月は一月前までに予約が必要です。ただ、最近は京都高島屋の地下で曜日によっては買うことができます。
 ちなみにお値段はそれぞれ5本1束で3900円です。これはかなり勇気のいるお買い物ですね。

(2013.5.29記)

 

 

回 京都御所

 私が京都で暮らし始めたのは1977(昭和52)年でしたので、かれこれ36年になります。18歳まで浜松で育ち、浜松人として完成した私は京都での生活が倍になりましたが心身ともに浜松人のままで、ここでは相変わらずよそ者です。冷や汗をかきながら生活をしてきましたが恥をかいていると気づいたのも10年位経ってからでした。
 そんな私が感じた京都をつづってみようと思います。

 第1回は恐れ多くも「京都御所」についてです。というのも先日1月22日、しらはぎ会京都旅行で見学し、記憶も新しいところ、この4月13日にある集まりで宮内庁京都御所事務所長の北啓太氏の講演「京都御所~その歴史から」を聞く機会に恵まれたからです。
 北氏は宮内庁書陵部に勤務され、皇室制度の歴史的研究をされていて、宮内庁正倉院事務所長を経て、平成20年より現職に就かれたとのことです。

 先の拙文、「京都旅行を終えて」に書いたとおり、現在の京都御所は明治2年まで歴代の天皇がお住まいになった内裏ですが、桓武天皇が平安京に遷都された場所はもっと西、現在の千本通がかつての朱雀大路に当たります。
 内裏は何度も火災に遭い、その度に再建されますがその間天皇は貴族の邸宅などを仮皇居に充て、これを里内裏と呼ぶようになりました。現在の京都御所は土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)と言われる里内裏のひとつで平安末期以降用いられ、明治2年まで皇居とされました。

 ここで、高校の古典の授業を思い出しましたが、藤原道長の邸宅を土御門殿と言いましたね。中宮彰子はここから入内し、敦成親王(後一条天皇)、敦良親王(後朱雀天皇)を出産したのもこの邸、道長の3女威子が後一条天皇の中宮となり、その立后の祝宴の時に道長が「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」と歌ったのもこの邸です。つまりここも別の里内裏で現京都御所のすぐ近くにあったようです。

 平安京の地図を見てみますと、一条大路と近衞大路の間に土御門大路があります。現在の京都では土御門通というのは存在しませんが一条通、近衞通はそのままあります。藤原摂関家の筆頭である近衞家がこの近衞通に邸があったからそう呼ばれる様になったのは言うまでもありません。

 さて、北氏のお話で驚いたことには、武士の時代には皇后や皇太子もおらず、その初期には即位式が何年も経ってから行われたり、崩御の際の葬式すら行われなかったとのことです。それほど貧窮していたのですね。

 もう一つ意外だったお話は、崇徳天皇、安徳天皇、順徳天皇と徳がつく天皇は京都以外の地で非業の死を遂げたのだそうです。

 都の雅なお話とは程遠いことばかり書いてしまいました。次回は「応仁の乱」の頃、とくに御所の財政が逼迫していた頃、天皇に毎朝「御朝物(おあさのもの)」と称する朝の餅を届け続けた「川端道喜」という和菓子屋さんのことを書きたいと思います。

(2013.4.17記)

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