第12回 まつりと「大柏餅」

浜松っ子にとって5月の連休は「ゴールデンウィーク」ではなく「凧」です。5月3、4、5日に行われる「浜松まつり」の凧揚げ、夜の屋台引き回し、そして何百人もの人がオイショ、オイショと練る「練り」を全部合わせて「凧」といいます。私は浜松を離れて40年以上にもなりますが、屋台の引き回しや練りは毎年かかさず見ていて、あのラッパの独特の節回しが聞こえてくると血がさわぎますから不思議です。

今年、50年ぶりに中田島の凧場で初凧を揚げるのを間近で見ました。8帖(3.25m 四方)もの大凧が人の力と風を受けてふわりと揚がり、空高くぐんぐん揚がっていくさまは見ていて感動しました。浜松の凧揚げは、家に男の子が初めて生まれた時の端午の節句に初凧を揚げる行事なのです。

ところで、高校時代の古文で「まつり」といえば葵祭のこと、と習った記憶があります。京都で5月15日に行われる葵祭は賀茂御祖(みおや)神社=下鴨神社と賀茂別雷(わけいかづち)神社=上賀茂神社の例祭で、古くは賀茂祭と称し、平安中期の貴族の間では単に「祭り」といえば葵祭のことをさしていました。
 私はてっきり、祭の起源は平安朝期だと思い込んでおりましたが、実際はさらに100年以上も遡るとのことです。古墳時代後期、欽明天皇(540〜571)の時、凶作に見舞われ、飢饉・疫病が流行したため、天皇が勅使をつかわして「鴨の神」の祭礼を行ない、五穀豊穣を祈ったのが始まりということです。
 賀茂の祭が葵祭と言われるようになったのは、応仁の乱の頃から200年も中断し、江戸元禄期に再興された時からで、祭の当日、内裏宸殿の御簾(みす)をはじめ、御所車(牛車)、勅使の供奉者の衣冠、牛馬にいたるまですべて葵(フタバアオイ)の葉で飾ったことから来ているようです。また、祭の復興に「葵の御紋」の徳川幕府の多大な援助があったからとも言われています。
 祭のヒロインとして、いつも今年の斎王代は誰が選ばれたかとニュースになりますが、祭の主役は勅使であり現在でも15日当日には天皇から勅使が遣わされ、葵祭が始まります。そして、下鴨神社と上賀茂神社においては実際の勅使である宮内庁掌典職の掌典が御祭文を奏上し、御幣物を奉納する社頭(しゃとう)の儀がとり行われます。
 源氏物語には勅使として祭に奉仕する光源氏の姿を一目見ようと、六条御息所と正妻、葵の上の車争いが起こる有名な場面があります。

10年ほど前、友人がこの上賀茂神社での「社頭の儀」の招待状をもらったからと誘ってくれたことがありました。3時半からの儀式を楽しみに出かけたのですが、あいにく昼から雨となり、雨脚はどんどん強くなって、とうとう下鴨神社からの行列は中止。勅使や齊王代はタクシーで到着となり、境内で行われるはずの儀式は社殿の中となって結局見られず、奉納の舞は中止となってしまいました。「路頭の儀」と呼ばれる行列は何度か見たことがありますが、せっかくの「社頭の儀」が見られず惜しいことでした。その時聞いた話では、行列が御所を出て下鴨神社までは到着しても、上賀茂神社に無事到達するのは5割しかなく、そのくらい、この時期は雨が多いのだそうです。そういえば、齊王代が選ばれたときの挨拶に「てるてる坊主を作って当日のお天気を祈りたい」というのがよくあります。
 念のため、申し添えますが、齊王というのは伊勢神宮または両賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王または女王(親王の娘)のことで、賀茂祭の齊王は鎌倉時代まで続きました。その後齊王は中断していましたが、戦後の昭和28年に祭の復活後、同31年行列を華やかに盛り上げるために、齊王の代わりとして民間から齊王代を選び、それを中心にした女人列を加えたということです。

話は端午の節句に戻ります。5月5日の端午の節句の供物として食べられるものに「ちまき」と「柏餅」があります。ちまきは中国伝来のものですが柏餅は日本のもので、江戸時代中頃から江戸で食されるようになり、後期には,江戸では主に柏餅、上方では主にちまきという風習が定着したようです。
 柏の葉は新しい芽が出るまで絶対に落ちない(枯れても落ちない)ことから「子どもが生まれるまで親が死なない=家系が絶えない」縁起のよい葉であり「子孫繁栄」の願いがこめられています。
 生地はうるち米粉をこねて、蒸し搗きあげ、丸く延ばした餅にこし餡、粒餡、味噌餡をはさみ、二つ折りにして柏の葉でくるみ、蒸し器で5分。そうすると柏の葉の香りがほんのり移って5月の風を感じます。
 子どものころ、母とともに家で作ったことがありました。近所のお宅に柏の木があり、葉をもらいに行くと沢山採ってくれました。餡は隣町のあんこ屋さんに自転車で買いに行き、生こし餡に砂糖を加えて炊きました。簡単にできた懐かしい思い出です。
 つい先日、NHKのEテレ「グレーテルのかまど」が「柏餅」を取りあげていました。各地の柏餅を紹介していて、突然、浜松の凧揚げ風景が映りビックリしていたら、その後、このエッセイの第6回栗蒸し羊羹で書いた巖邑堂の奥様が出て来られて、さらに驚きました。遠州地方独得の「大柏餅」を息子さんである現当主が実際作っているところも映していました。「大柏餅」は初節句にお祝いをもらうとそのお返しに配るものです。もう長いこと見たことがありませんでしたが、まだ存在するのかとうれしくなりました。
 ちょうどしらはぎ会の集まりが17日にありましたので、巖邑堂に電話して1つ注文しました。当日、新幹線から下りてまっすぐお店に行き、ずっしりとした大柏餅を受け取りました。
 夜、京都に戻って箱を開けてみると、昔に比べて随分小振りになっていました。計ってみたらそれでも20センチ余りあり、包丁で切って1切れ。甘みを感じない、もっちりした皮がこし餡のおいしさを際立たせていました。

元祖まつりの「葵祭」と浜松まつりの初凧のお祝いにちなんだ「大柏餅」。浜松の風をいっぱい吸い込んだ5月でした。

   
参考文献 直中護「柏餅」『和菓子歳時記』(2005)
参考サイト  http://www.kyokanko.or.jp/aoi/
http://kyoto-design.jp/special/aoi

(2014.5.21記)

 
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