どこまでが徒歩通学、どこからが自転車通学(馬込川から東は自転車通学区域だったかも…という話もある)、どこからが電車通学などという厳密な規則はなく、各自が自分で通学手段を決めていたように思うが、とにかくよく歩いた。
 
 
 
  奥山線利用の通学ならば自宅から40分歩き、曳馬野駅から名残駅まで乗る、浜松駅前から30分歩くは当たり前で、時には北高から遠方の自宅まで歩いて帰ったり、雨降りで満員の日は始発の浜松駅まで歩いてから奥山線へ乗ったりなど、電車通学でもよく歩かれたそうです。
昔は世間もおおらかで、奥山線(「軽便」と呼んでいた)は本数が少なく1時間に1本ぐらいしかなく、発車時間でも駅に向かって走って来る学生がいれば待っていてくれた。
当時のバスは本数が少なかったが、バス停へ走ってくる人を待っているだけではなく、乗り遅れて手を振ると止まってくれたり、降車時には、頼めばバス停ではない家の近くで降ろしてくれるなど、人情味があり融通がきいた。
奥山線にもバスにも車掌さんが乗車していた。
 
 
 
 
昭和26年にディーゼル化された奥山線
(写真提供・遠州鉄道)
今の感覚で考えれば、とんでもなく不便な時刻表ですが、当時はそれが当たり前だったので、人が乗り物の都合に合わせる感覚で、不便さや不自由さをさほど感じていなかったそうです。とくに通勤と通学が重なる朝晩は、いつも満員のすし詰め状態で、中国やインドの満員の乗り合いバスや電車と同様、ドアが閉まらなかったり、デッキに客がぶらさがった状態で運行される事も珍しくなかったとか。それが可能な遅いスピードで走っていたようですが。
北高まで奥山線で通う場合は、清水歯科の裏手・布橋のおこのみ屋さんの前に駅(名残駅)があり、北高校門前ぐらいは上下線とも減速運転になるので、男子生徒の中には動いている電車から飛び降りる、飛び乗るなど無謀なことをする人もいたようだ。当時は、蛮カラ風に朴歯(ほおば)のゲタをはいた男子も多かったが、校舎が新しくなった時(北校舎落成)、ゲタでの通学が禁止され運動靴になった。
また、奥山線では乗客が多い時、普済寺や祝田(ほうだ)など、急な坂にさしかかると乗客(男性)が降りて電車を押すことがあった。
住宅のすぐ近くを走る電車だったので、洗濯物が目の前にあったり、食事の匂いが漂ったり、ビワの実がたわわに実って電車におおいかぶさるようになったり、季節感や生活感にあふれる路線だった。
 
 
 
  通勤や通学に利用されることが多かった奥山線。そのため満員電車の反対方向はガラガラ。そんなガラガラ電車を利用すると、いつも決まった顔ぶれが揃い、決まった駅で乗降し、いつしか仲間意識のようなものが芽生えたとか。
卒業後に教師をなさっていた方の場合、三方原にあった学校へ通勤し、校長先生以下ほとんどの先生が同じ時間のガラガラの逆方向電車で通い、ある駅の先(上りならば手前)は先生方だけになるので「電車の中で職員会議ができる」と笑い話になったそうです。

新制高校になって学区制が厳しくなったが、高校が少なかったこともあり越境して北高へ通う生徒がいた。そういう生徒は親戚や知り合いの家に居候したり下宿していることも多く、それを知っても違和感があまりなかった。
生活は貧しかったが、親も親戚もおおらかで、一人ぐらいの預かり子がいる家庭など、珍しくなかった時代でもあった。
 
 
 
  北遠地方からの越境生徒もいたそうです。今と違い、高校が少なかった当時は、大学進学を考える生徒は、越境してでも将来へつながる高校への進学を希望したとか。現在の有名大学合格率だけを重視した進学校狙いとは違う、夢を託した切実な進学事情があった時代です。  
       
 
     
 
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