Q7 通学時の思い出を教えてください

【5回生】
■正門から入らず垣根(植込)の間が門のようになっていて、そこを通用門としている人が多かった。家が近く走れば3分ほどなので、父が入院して母が付き添いで留守になっていた時、昼休み鶏のえさをやりに家まで往復走ったことがなつかしい。食糧難のために鶏を飼っていた。(名残町)
■下駄履きで通学したこともありました。時々軽便。(城北)
■あまりに短くて思い出がない。(布橋)
■特別な思い出はありません。全体的に無事に過ごし、朝は時に中学の友達と会うこともあり、帰りは道筋が合えば同級生と帰るという毎日だったと思います。(肴町)
■砂利道ですべったり、輪をとられたりと自転車が下手だったので困ったことを思い出します。
■昭和39年に廃線になった奥山線のディーゼル機関車で通学した。(三方原町)

【6回生】
■浜松⇔気賀バスが通る道を自転車で。(三方原)
■遠鉄奥山線(昭和39年廃線)を利用したことも。当時の道路は車の通行は少なく、時間帯によっては荷車や牛にひかせる車などが多く、のどかなものだった。
■バスは1時間に1本。浜松市内(当時)の高校に通った男子学生は自転車通学の人も多くいました。まだ舗装していなかったので大変でした。1年生はバス通学でしたが2年生からは親類へ下宿しました。(舘山寺)
■校門の前を軽便鉄道が走っており、乗ってこられたらいいのにと思っていました。(田町)
■電車もバスもいつも混雑していて満員でした。市立校、浜商、附属、静大の生徒であふれていた。下校時には毎日学校前の本屋さんへ寄っていた。(西ヶ崎町)
■通学時間が短いのでまっすぐ家に帰り、これといった思い出がない。(和地山)
■何人かの友人と楽しいおしゃべりをしながら、時には友人の家に寄って楽しい時を過ごした。(有玉北町)
■母の下駄を履いて登校し「それだけはやめろ」と言われました。(3〜4人で)
■軽便が通っていて時々乗った(下池川町)

【7回生】
■登校時は坂を上り、同級生と会えばおしゃべりをしながら遅刻しないように。帰りは同級生と(男子も交えて)おしゃべりおしゃべりでした。もっともこれは3年生になって部活がなくなってからのことです。(東田町)
■当時は交通量が少なく事故を意識しなかったような気がします。帰り道、坂の上でペダルを踏むとほとんどブレーキもかけず猛スピードで走った。車に気をつけなさいと言われませんでした。雨の日はカッパを着てカサをさして平気でした。(三島町)
■帰りの電車で時々同級生と一緒になり、色々話ができて楽しかった。奥山線は廃線になって40年以上になりますが、今も昨日のことのように鮮明に思い出され懐かしいです。汽笛を鳴らしながらゆっくりと鉄橋を渡る景色はとてものどかでした。(常盤町)
■現在は廃線になっている早馬(東田町だったかも)から奥山へ行く電車で通学しました。バスは浜松駅でいっぱいになり、途中からでは乗れないことも多かったので。同じ電車では北高、浜商、盲学校の生徒さんと一緒になりました。(常盤町)
■帰りはいつも同じ友達と一緒で、親、きょうだいのこと、授業のことなど話に夢中でした。気がつくと自分の家への分かれ道でそこでも立ち話といった毎日でした。(鹿谷町)

【8回生】
■往復に乗る列車はかなり限定されていた。朝は通勤・通学者が多いため、貨物列車が一両連結されており、ここは少しゆっくり乗ることができた。(磐田市)
■不便な田舎でしたから朝6時半に家を出、8時30分始業に間に合うという毎日。往復4時間、でも3年間皆勤賞を頂きました。冬は夜明け前に出て、帰宅は暗くなっていました。雨の日など電車(当時は汽車)もバスも満員でした。(湖西市白須賀)
■高校1年時は浜松駅から天竜川駅まで汽車であとは駅から家まで自転車で通学しました。北高から浜松駅まで女子の友達と歩いておしゃべりして帰ったのが楽しかったです。高2の3学期の終わり頃に名前も知らない高3の北高男子が中野町へ行くバスの前の席で曇った窓ガラスに「so long」と書いていたのを思い出します。(中野町)
■朝、時間ギリギリで同じ面々が乗り合わせ駅から走ったこと。(有玉北町)

【9回生】
■3年の後半だと思うが、高町の交差点の手前でトラックをよけてとびおりたら、ドブにはまってしまい、一旦家に戻り着替えて登校。当然、遅刻。3年間無欠席、無遅刻を目標にしていたのに…。先生に事情を話したが受け入れなく遅刻!残念、無念。先生は甘くはなかった!!
■夏休みに弁天島で遠泳をしたこと等、懐かしく思い出します。通学については、寄り道もしないで往復するだけでした。電車の時間が気になりましたから…
■東海道線が蒸気機関車で、発車時速度が遅いので、乗り遅れそうになっても、ホームを走って追いついた。浜松駅から学校までの間、友達や先生と話しながら通学でき、良い思い出となっている。
■遠州鉄道奥山線のディーゼルで通学しました。1時間に1本の列車ですので、朝のラッシュ時は学生でいっぱい。遅刻しそうになって、入り口にたむろする男子学生の間をかき分けて乗り込むのは、大変な勇気がいりました。“女のくせに…”が当時の一般常識でしたから。
■気賀口駅から、朝、奥山線に飛び乗ると、学生がほとんどで、あまり私語もなく、みんな教科書や参考書とにらめっこ。曳馬野駅で先頭車両をディーゼルに切り換えて…名残駅まで。

【10回生】
■木炭バスだった。バスのうしろから煙が出ていた。道路がデコボコしていて立っていられない程ゆれて笑い出してしまった。止まるたびに砂けむりが窓から入って息が吸えなかったので苦しかった。
■同じ道の友人2〜3人とおしやべりしながら通ったのが楽しかった。その話の中でいろいろ学んだ。
■電車通学で他校に通う友人と席を譲りあったこと。(毎日のことなので30分ずつ交代ですわり、すわった者はカバンをあずかること)

【11回生】
■ユネスコ主催、演劇コンクール優勝
■原則として徒歩通学でしたが、遅くなった時、連尺からバスに乗ろうとしましたが、いつも満員で乗せてもらえず、かえって遅くなり、ホームルームに遅刻したことが時々ありました。3年生の時のホームルームに遅刻した罰は、教室の前の入り口から「先生、お早うございます。皆さん、おはようございます」と大きな声であいさつするものでした。ホームルームにも間に合わなかった人はもバツ掃除だったとか?
■雨の日はバスでしたが混んでいました。
■自転車通学の時は市役所前の坂道で向かい風になり、自転車をこぐのが大変だった。
■一人で通学していたので、賑やかに通学する女子高の方が羨ましかったです。
■近すぎて味気なく、登校前に医者に通った時、はじめて電車通学したのが忘れられません。

【12回生】
■始業時間間近に附属の角を曲がって歩いていると、入野町あたりから自転車でフーフー言いながらやってくる一団と毎朝出会った。田舎からご苦労様と思っていたら、その中の一人と結婚する羽目になり、びっくり。
■教科書、ノートの外に帰りに塾(斉藤塾)へ寄った為、カバンが非常に重く、登り坂の所で、よく足をくじいて大変でした。制服が無かったので、1年生の1学期は、中学の制服のラインをはずして着、あとは適当な服での通学でした。おしゃれに疎い方でした。
■学校からの帰り道、上級生・同級生と演劇・音楽会など語りあったことが懐かしく思い出される。

【13回生】
■西循環のバス路線は市立の生徒さんが多く、少し抵抗を感じた事がありました。
■バスの終点が元の動物園(今の浜松城公園)の辺りだったので、近くに図書館もあり、私にとっては楽しい青春のひと時でした。
■まだ舗装されていない田舎道を50分余り自転車で通いました。今思えば大変なことなのに、当時は結構楽しく、夏は真っ黒に日焼けしていました。お蔭様で、今でも健脚を保っております。
■遠電が懐かしく思います。
■市立の生徒と一緒の「満員バス」でした。ある土砂降りの朝、松葉杖の北高生がバスに乗ってきました。バス停まではお母様が送っていらしたのですが、北高前で降りてから校舎に入るまでは傘がさせないため、コートを着ていたものの、濡れてしまって大変そうでした。めがねをかけていましたし。ずっと見ていた私は、まわりにいたたくさんの北高生の手前恥ずかしくて「傘に入りませんか?」ともいえず、そうかといって追い抜いてもいけず、ずっと後ろからついていきました(遅刻しました)。卒業してから、先生に聞きましたら、先生もその人のことを覚えていらして、「病気で休学していたけれどどうしても卒業したいとがんばった。結局卒業できず、退学した。」と教えてくださいました。私の「その時」は彼が「頑張っていた」時だったのかと思うと今でも心が痛みます。
■バス通りではなく、畑の間にある細い道をのんびり歩いていくのが好きでした。

【14回生】
■1日5〜6本の佐鳴湖〜高塚駅を通るバス路線を利用したことがあったが、時間待ちのため、図書館を利用しました。一度、バス停で手を挙げても止まってくれず、とても悔しい思いをしました。そんなこともあって、ほとんど電車とバスの通学でした。
■通学時のバスがいつも満員でおまけに舗装されていない凸凹道だったので(当時は女性の車掌さんで「おつめください!!」と叫ぶと「つまらんこというな!!」とヤジが車中にとんだりした)、学校につくとぐったりしました。
■途中女子高(市立)の前を通るのが嫌で避けて通ったような思い出があります。帰りが遅く、暗くなったときには多少不安を感じたと覚えています。神社とか空き地とかもまだ多い時代でしたから。

【15回生】
■浜松駅でいかにバスに早くのるか(登校時) (その頃は一列に並んで乗ることなく、先を争ってのりました。通学時間帯でしたので、高校生ばかりでした。)
■バスが途中、えんこした時、大人の人達が「学生は遅刻してはいけない。」といって、通りかかったトラ ックの運転台に大人の人が乗せてくれるように頼んでくれて、乗せてくれ、遅刻せずにすんだこと。
■バスから降りたとたん、夕立で困っていたら他校の女生徒が学校まで傘に入れて連れてきてくれたこと。
■途中で友人に会うとおしゃべりをしながら通学した。
■浜松駅行のバスに乗っていく時、いつも同じクラブ(アーチェリー)の女子と同じ時刻のバスに乗り合わせていました。(その方は中田島)帰宅時はアーチェリー部の女子達(男子も少し)と同じバスで浜松駅までおしゃべりをして楽しかったです。
■浜松駅で自転車の置き場に手間取った。汗びっしょりでバスに乗り、混雑していたので臭わないかと緊張した思い出がある。
■通学路の途中に同級生の家があり、毎日二人でおしゃべりをしながら通った。

【16回生】
■同学年の女性達と毎朝一緒に登校した(一年時)。運動会の仮装行列に参加して面白かった。昼休みは時々屋上でのフォークダンスに参加した。合唱大会でクラス毎に練習した。夏の文化祭でお琴を弾いた。
■今の佐鳴台を通るデコボコ道通学路のバスにしばらく乗りましたが、いかにも寂しく、やはり中心部へ行って乗り換えでいきました。
■奥山線は通学時や帰宅時、色々な高校の学生でいっぱいでした。