4回生の大先輩方は、まさに「しらはぎ会のルーツ」です。新制の浜松北高第一期入学生で、北高の女子生徒の歴史はこの時から始まりました。 4回生は5名卒業されていますが、現在もお元気な3名の方から回答をいただき、アイウエオ順でご紹介させていただきます。
今春、北高を卒業する生徒は60回生です。4回生は、戦後まもなくの物質的貧困と精神的混乱が支配していた半世紀以上前に高校生活を過ごされました。今とはあまりにも時代背景や社会環境が違いすぎます。
そこで足立美佐さんにお願いし、若い後輩のために、当時の生活の実情を教えていただきました。大先輩のアンケート回答をより理解するためにも、戦争末期から終戦直後の暮らしを理解していただければと思います。

ご協力いただい足立美佐さんに心から感謝を申し上げます。              (山中圭子)
 
■入試には学区があって、三方原中学は北高と限定されていましたので自然の成り行きです。このときお隣の市立には少数の男子が入学しました。1年を経て、男子生徒は北高と西高に分かれ転入されたと聞きました。(足立美佐)
■公立高校へ行きたかったから。学区制があり、三方原中学校は北高が学区になっていたため。(中嶋朝子)
■私は高三からの転校生で北高にいたのは一年きりなので、あまりよく覚えていないんです。
北高を「志望した理由」ではなく、「転校した理由」は、当時在学していた気賀高では規模が小さいため、二年で物理、三年で生物、というように理科系、数学系など学年で一科目しか取れなかったからです。北高へ移れば好きな科目を選択できます(そのころは国立大学の受験科目は八教科だった)。
というのは表向きの理由で、いま考えれば確かに憧れがあったのでしょう。北高生の学帽はどういうわけか白線を必ず後ろに長く垂らしていて、それを見ると胸がドキドキしたものです。
職員室へ入っていって「転校したい」と言ったら「そんなことは校長に言え」と言われ、校長室へ談判(?)に行きました。当時は皆川校長でした。
その時からひいきにしていただき、転校試験の時もわざわざ様子を見に来てくださいました。先生は北高最後の名校長でした。(吉良知子)
 
■一年間は、女子6名は一クラスにまとまっていました。一人が転校一人が退 校されて4名に。授業は科目ごとに教室を移動し、選択により女子一人で授業を受けるのが度々あって、隣に女子が座っていたらいいのにと思ったものでした。一年時、余りにも殺風景な教室に一輪挿しでお花を飾ったことがあります。勉強の場に花なぞ不要といわんばかりに、花の首をちぎってしまう人がいて、何回かで諦めました。
男女七歳にして席を同じゅうせずで育てられた私達は、こちらから男子に話しかけることはなく、男子から質問されても最低限の返事で済ましました。併設中学で3年間暮らした男子は、学校の中のことはすべて心得ているわけですから、なんでも聞いて教えてもらえばよかったと思いますが、「男子と女子が話をするのは不良のすること」というレッテルを貼られるのが怖くて、不自由を忍んでおりました。いつも緊張して小さくなっていたように思います。
掃除当番になっていても、掃除をしないで帰る男子が多くて、いつも女子だけで掃除をしました。当時の掃除は、触ると棘がささりそうな木の床を箒ではき、ごみは床の穴(あちこちにありました)に落として、如雨露で水を撒き、机を拭いて終わりでした。(足立美佐)
■女子の入学が初めてなので、入学者が少なく男子の中へ入って行くことは、大変緊張した。女子の設備がまだ整っていなかったので困ることが多かった。男子との交流がなかった。(中嶋朝子)
■四十名くらいのクラスで女子が一人ということは始終ありました。先生は女に関する冗談を時々言い、私のいることに気づいてあわてるということもありました。同級生の男の子と話をしたことはほとんどありません。
他のクラスの背の高い男子に話しかけられたことはありますが、最小限の返事しかしませんでした。私は早生まれで中身も体格も小さく幼稚だったので、恥ずかしかったのでしょう。特に困ったことはありません。(吉良知子)
 
■意識したことはありません。「どうして男子校に来たの? 市立より月謝が安いから?」と聞かれたことがあります。受験に限定された学区があったことを、ご存じない方が多いようでした。(足立美佐)
■気遣いは感じたが行動は遠慮がちであったと思われる。(中嶋朝子)
■男子生徒は非常に気を遣っていてくれたと思います。先生も男子生徒も腫れ物にさわるように扱ってくれたので不快な思いはしませんでしたが、しかし、いま考えると、一人前の扱いではなく、「お客さま」だったのだ、と思います。まぁ、それもこれも過渡期だったのですから仕方がありません。(吉良知子)
 
■「女子トイレ」は入学時、新校舎(と呼ばれていた、艦砲射撃を受けた校舎)のトイレの端一箇所に「女子用」と張り紙がしてあったように思います。
「家庭科」と「制服」はありません。 女子が増えてから、他学年の女子と合同で体育か、保健体育をしたような感じもあります。 「女性教師」は保健室の今井先生、音楽の本間先生が市立からいらしてました。(足立美佐)
■制服はなく、制服が決まったのは私が転校してからのように思います。同学年の女子五人のうち制服を着ていたのは矢野さんだけでした。下級生もあまり制服を着ていなかったと思います。
ここで下級生というのは高二の女子のことで高一は含みません。まだ人数も少なくてどこにいるのかわかりませんでしたが、高一はおそらく制服を着ていたのではないでしょうか。
服装や髪型、スカート丈の制約は全然なく、生徒への信頼があるから、そんなつまらない規則はないのだと思って感心しました。(吉良知子)
 
■講堂、音楽室、物理教室、化学教室、保健室。
「売店」は決まった場所あったかどうか?  おばさんが自転車でパンを売ってました。 (足立美佐)
■特別教室についてはよく覚えていません。外から直に入れる教室へ、男子が外に下駄を脱いで入ってきました。担任が物理の先生なのでうちのクラスの部屋は物理の特別教室でした。同じ学年には下宿している人もいました。
なにしろ旧制の最後ですから、新制高校とは全然気風が違いました。今の子たちよりずっと大人でした。彼らは旧制中学に入学した最後の学年で六年間ずっと一緒ですから非常に結束が固く、私も旧制高女からの転校生なので、その匂いにすぐ気づきました。
旧制中学とか旧制高女は義務教育ではなく、行く人は少なかったのです。義務教育は小学校までで、もう少し勉強したい人は高等科へ進みました。高等科は二年制です。その高等科が新制中学になったんです。(吉良知子)
 
遠州鉄道の奥山線を利用して通学 。自宅所在地は大原町で、通学時間は徒歩で都田口駅まで20分 、入学時は上池川駅まで30分(3年時には名残駅がありました)、その後は徒歩で北高まで。(足立美佐)
■遠州鉄道の奥山線(軽便)。三方原〜上池〜北高で、自宅から学校まで約2時間。(中嶋朝子)
 
■軽便はいつも満員で腰掛けた記憶はありません。下駄(ほうば)を履いて通学していた人もかなりいて、通路に立っている私たちは良く踏まれて痛い思いをしました。
校門のすぐ前に軽便の線路があって、傾斜がきつかったのでしょうか、下りはゆっくりゆっくり走ります。音楽の本間先生から「駅まで行かなくても学校の前から飛び乗りなさいよ」と言われたものです。(足立美佐)
■三方原から軽便鉄道で通学したので、時間通りに運行しないことが多かったので大変困った。時には線路を歩いた。忘れない思い出です。
乗降駅は上池だったが乗る人が大勢なので、出発駅の東田町まで歩いて乗った苦しい思い出もある。乗客が満員で雨が降っていてもデッキにつかまって帰った時もあり、こんな思い出は一生忘れない。(中嶋朝子)
■北高へは軽便通学です。奥山からですから一時間半かかり、しばしば最終に乗り遅れて市内の親戚の家へ泊めてもらいました。(吉良知子)
 
■「女子だけの特別授業」などでなく、1年次の体育は、小使室横の空き地にネットを張り、バドミントンをしていました。翌年になって1年下の女子と保健体育の授業を受けた記憶があります。これが3年まで続いていたかは、はっきりしません。(足立美佐)
■体育だけだったと思います。(中嶋朝子)
■女子だけの授業は保健体育で、それはすぐ下の学年の女子と合併で講義を聞きました。(吉良知子)
 
■授業においては差別を感じたことはありませんでした。(私は)そこまで感じる余裕がなかったと思います。(足立美佐)
■女子に心遣いがあったと思いますが、特に差別は無かったと思います。(中嶋朝子)
 
■「遠足」をした記憶はありません。3年時テニス? のクラス対抗できっと優勝したのでしょう。テニスラケットを持っている男子が中央で、記念写真を撮りました。 「運動会」も良く覚えていません。「修学旅行」は女子が少なくて、遠慮したように思います。(足立美佐)
■「学校祭」は、他校からの生徒も参観して盛り上がって楽しかった。「遠足」は楽しかったが、男子が歩くのが速くついていくのに疲れてしまった。(中嶋朝子)
■クラス対抗競技で卓球のクラス代表選手として出場しました。卓球部の男子もいたのですがラリーで打ち勝ったので選ばれたのです。もちろんあっという間に負けました。スキーや登山はありませんでした。 「修学旅行」は女子が参加しては邪魔かと思って遠慮しました。貧乏だったので親の懐を考えたということもあります。母子家庭で奨学金をもらっていました。何かの寄付を免除してもらった覚えがあります。皆川先生にはずいぶんお世話になりました。(吉良知子)
 
■3年間音楽クラブに所属していました。活動がどんなものであったかは思い出せませんが、クラブ内では男子と話をしたように思います。(足立美佐)
■参加していなかった。(中嶋朝子)
■クラブ活動は学期ごとにあちこち変わりました。移り気なのですね。音楽部、書道部、文芸部、他に体育関係の部にも一時入っていたような。(吉良知子)
 
■生徒会はあったのでしょうが、記憶がありません。(足立美佐)
■クラスで選ばれて参加したが、名前だけで活動がなかった。(中嶋朝子)
■生徒会については全く覚えがありません。(吉良知子)
 
■軽便の本数が少なかったので、遠州堂(学校近くの本屋さん)で立ち読みして時間を調整していました。(足立美佐)
■特別な記憶はありませんが、授業の見直しをしていたことが多かった。(中嶋朝子)
 
■ 男女交際はなかったと思います。男子と女子が立ち話をしているだけでも「あの2人はおかしい」と「不良」のレッテルを貼られる時代でしたから。男子に話しかけられて返事をしないわけにもいかず、「これを誰かに見られていたらどうしよう」と心配しました。(足立美佐)
■何もありませんでした。(中嶋朝子)
 
■進学をしたい気持ちはあったのですが、経済的に無理なことがわかっており、就職しました。進学は女子に必要ないと母は話していました。
私は銀行に就職しましたが、就職試験でも「女子は英語の試験を受けないでお帰りください」と言われ、面接でも「北高に女子を募集していない」と嫌がらせを聞きました。(足立美佐)
■進学を希望しなかったのでわかりません。(中嶋朝子)
■名古屋の大学へ行きたかったけど先生に反対されました。先生は、はじめから法学部か医学部だと思っておいでのようでしたが、私の志望はレベルの低い文学部だったので落ちるにしても試験だけでも受けたかったと後で考えました。(吉良知子)
 
■4回は女子が少なかったから、まとまっていたと思う。お互いに干渉しすぎることなく、おしゃべりをしました。(足立美佐)
■女子が少ないことで、仲良くなったということではなくて、自然に協力的になっていたと思います。(中嶋朝子)
■女子は他のクラスに須賀さん、中嶋さんがいて、矢野さん、足立さんと私の三人が同じクラスでした。もう仲良くやるしかありません。もし喧嘩すれば誰も喋る相手がいないのですから。(吉良知子)
 
■父や叔父・主人とも同窓になり、共通の話題が持てるのは嬉しいことです。銀行に就職したとき、先輩が「僕の後輩」と言って暖かく接してくださいましたし、末子が中学になり再就職をした時も、北高出身ということで優遇されました。
多くの男性の中にいたことは、不自由さを我慢し、何でも自分でこなしていく精神が鍛えられたと思います。求められれば自分の意見をはっきり言う強さ(図々しさかもしれない)を培ったようです。 (足立美佐)
■北高の気風が身について良かったと思います。男女共学の最初の女子5名の卒業生の一人として高校生活を送れたことに感謝しています。(中嶋朝子)
■現在つき合っている北高関係の方は一人もありません。同じクラスだった足立さんと年賀状程度。
そんなわけで北高を卒業したということは人脈的にも、性格思想その他すべての点において私の人生に何の関係も影響もありません。 とにかく一年しかいなかったし、記憶力も悪いので、あまりよく覚えておりません。どうぞこれでご勘弁ください。(吉良知子)